サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【ize訳】ブロマンスとロマンス│①それはブロマンスではない

【ize訳】ブロマンスとロマンス│①それはブロマンスではない

 

2017.5.30

 

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2017052922057252019&pDepth1=most


映画「不汗党」でハン・ジェホ(ソルギョング)とジョヒョンス(イムシワン)の関係は、まるで「ロミオとジュリエット」のように見える。二人は犯罪者と警察という身分の違いにもかかわらず、お互いに引かれあっている。ジェホは他人を絶対信用しないのに、ヒョンスだけは自分のそばにいることを望み、ヒョンスが彼に「信じてくれ」と訴えている関係は悲劇的な恋人とも同じだ。マスコミ試写会で「不汗党」の演出担当であるビョンソンヒョン監督も「私はこの映画はロマンス映画だと話していた。実際に準備段階ではノワールよりもロマンスものの方をよりたくさん見た」と明らかにした。また、ソルギョングも製作報告会で「ブロマンスの話を多くしたが、私はこの映画を撮りながらイムシワンという俳優と恋もして嫉妬もした」と明らかにし、ジェホの友人であり組織の3因子の役割を引き受けたキム・ヒウォンは「私はソルギョング先輩に片思いしていたようだ。ブロマンスに私が含まれてなかったのがちょっと残念だ」と話した。彼らはすべての愛についてを語っているのだ。ブロマンスではなく。

 

ビョンソンヒョン監督はハンジェホのキャラクターについて「『あの両班、男色もして女色もして』というのがあった。投資会社の方からあまりにもその部分を強調し過ぎるようならできないと言われたので、抜いた(STARNEWS)」と述べた。ハンジェホがセクシャルマイノリティという設定を表わした場合、キャラクターの関係性はより明確となっただろう。しかし、韓国では男たちのブロマンスではない愛の物語はすぐに投資を受けられる可能性が低くなる。映画広報代理店Aチーム長は「『ブロークバック・マウンテン』や『ミルク』のように同性愛が映画の主題でない以上、あえてその要素を強調はしない」と説明した。映画「王様の事件手帳」の原作も「BL(Boys Love)」の性格が強いが、映画化された時にはそのような要素は最初から削除された。代わりに広報やマーケティングの過程で「ブロマンス」が、より強調される。 「不汗党」は「설에임」というカップリング名にまで言及しキャラクターの関係性をブロマンスとして説明し、「王様の事件手帳」は、「軍神ブロマンス」、「保安官」は「花おじさまブロマンス」として広報された。 1980年代の世相を描いた「普通の人」の主演ソンヒョンジュもやはり広報過程で「予想外のブロマンス職人」として紹介された。

 

映画プロデューサーBはブロマンスについて「80-90年初めに流行した香港ノワール映画でも、『男性間の義理ではない愛』を強調した。警察、暴力団など同性だけで構成された集団が登場する映画が流行して現れたジャンル的特性だ」と「映画でのロマンスは男女間の愛だけを意味しない。さらには、犬や猫、人工知能が出る映画もロマンスに属する。ブロマンスも同じ文脈だ」と説明した。ブロマンスは同性愛とは区別される意味で使用され、男性の集団が出てくる映画が増えるにつれて自然に浮上した現象というものである。映画だけでなく、ドラマ、芸能などの男性出演者が複数登場するコンテンツには例外なくブロマンスが登場する。ドラマtvN「シカゴタイプライター」、JTBC「MAN TO MAN」、SBS「怪しいパートナー」などでも男性主演同士の関係性がヒロインの存在感を脅かすほど親密に描かれる。芸能番組であるtvN「共助7」は「強制ブロマンスバトル」をコンセプトに立てるほどだ。男性中心の大衆文化においてブロマンスは、彼らだけの連帯を意味する言葉になった。

 

このようにブロマンスが大衆化され、同性愛は大衆文化産業で以前よりさらに排除されている。これまで以上に同性愛的コードを盛り込んだ作品が多く出てきているが、数々の大衆文化コンテンツは同性愛と説明しなければならない話さえブロマンスというカテゴリーに無理やり入れている。映画投資会社C課長は「最近は観客がワントップ主演よりもツートップ主演を好むし、様々な俳優たちのケミストリーを見ることができる映画を好む。ブロマンスはこれらのケミストリーを意味するものであり、同性愛とは違う」と説明した。その俳優同士の関係性は強調するが、製作会社と投資家は、それが決して同性愛ではない事を殊更に強調するのだ。この過程においてqueerジョーク・コード(訳注:ゲイジョークネタ)は最初からユーモアとして活用され、マーケティングのための餌のように消費される。 tvN「鬼」序盤でコンユとイドンウクが仲良くする場面は必要以上に頻繁に露出され、映画「共助」でヒョンビンとユヘジンが車両の中で不本意ながらも密着したスキンシップをする場面は性的隠喩を込めながらジョークのネタとしてのみ活用された。もちろんqueerものでなくてもqueerジョーク・コードが登場することはできる。しかし、同性同士のロマンスをブロマンスというコードで消去する韓国大衆文化産業の場合は、もはや「不汗党」のようにqueerという設定自体を削除するに至った。これは詐欺を越えて暴力といえるだろう。 A大尉が営外で同性の恋人と性的関係を持ったという理由で懲役刑を宣告される現実では、なおさらのことだ。

 

文 ソジヨン
校正 キムヨンジン

 

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つい最近、韓国軍の成人男性兵士がプライベートでの同性愛行為で逮捕された事件(韓国では成人同士の同性愛行為は禁止されていませんが、軍人の場合は禁止なんだそうです。軍上層部が隊内の同性愛者密告を奨励したりという事例もあり、社会的な反発が大きい事件の様です)と近年の韓国での「ブロマンス」ブームを受けての記事でしょうか。


それほど韓国のドラマは見ないのですが、たまたま見た「キム課長」なんかもそういう要素ありましたし最近のヒットドラマには確かにいわゆるブロマンス的要素はよく含まれている気がします。

「不汗党」のソルギョングの役柄からバイセクシャル設定が投資家の意見でなくなったというのはなんだかなぁと思いましたが、日本でも手塚治虫の「MW」が映画化された時に原作にあった同性愛要素が全部なくなってて物議を醸してた事を思い出しました。アメリカでセーラームーンが公開された当時は、作中の女言葉で喋って男性の恋人がいる男性のキャラクターが女性という事になっていたそうですし...
(学生時代の英語の先生がとても怒って話していたエピソードなのでよく覚えている)

 

個人的には「ブロマンス」っていう単語と概念にはすごく欧米的(アメリカ的?)価値観を感じるので、そのまま取り入れなくてもいいんじゃないかと思ってます。いわゆるラブロマンスではない同性間の関係性を扱った作品ってアジアでは特に関係に名前をつける事なく存在してきたと思うんですが、少し前のアメリカの映画評論などを読んでいると以前はそういう要素はことごとく「クローゼットゲイロマンス」、つまりあからさまに同性愛を描くことができないから暗喩でほのめかしているのだという扱いになっている事が多く、確かにそういう歴史的な事実はあるんでしょうけど同性間の愛情関係を全て=性愛をともなう関係に括ろうとする、あるいは真逆で「プラトニックな関係だから尊い」みたいな方向にまとめようとするのがすごく欧米的というか、キリスト教的価値観てやつなのかなあと疑問に感じたりもしました。実際に少なくないアメリカ人の知り合いが日本のCMやドラマで同性コンビがいっぱい出てくるのを見てゲイものが多いって断じてたのもびっくりしましたし。同性2人でいつもつるんでたらイコール全部ゲイと見なされるのかとちょっと極端だなと思いました。

 

だからアメリカでは「ブロマンス」っていう言葉が出てきた時はかなりエピックな事だったのかもしれませんが(セクシャリティに関係なく同性同士の濃密な関係を描けるっていう名目のジャンルができたという点で)元からわざわざ特定の関係としてくくらなくてもいい同性間の人間関係を描く作品がエクスキューズなしに存在してた韓国で、あえて取り入れる必要がある概念なのかなあと思いました。LGBTへの認識や権利がまだ完全に確立されてない段階で採用すると色々誤解が生まれそうだなと。日本では意外とそんなに定着してない感じがしますが...なんか違うと思ったのか、それともただウケるなら即取り入れる韓国のフットワークの軽さに比べて慎重なだけなのか?

 

実際の世の中では性的な関係の有無も含めて、とても複雑で多様な愛情関係が異性間・同性間あるいは異種生物間(生物でもない場合もあるかも)でたくさん交わされているでしょうし、そういう曖昧で簡単には分類できないような感情や関係を作品として表現するならフィクションのひとつの在り方でもあると思うのですが、「ブロマンス」という言葉によってある意味で曖昧さを回避する括りができてしまって、それは作品を見る方にとって判断材料にもなるけどバイアスにもなりうるのではないかと思いました。