サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

[アートインサイト訳]K-POPはクィアポップになれるのだろうか?

[アートインサイト訳]K-POPクィアポップになれるのだろうか?

https://www.artinsight.co.kr/m/page/view.php?no=52890#link_guide_netfu_64709_77360

2021-03-19

【西欧の人種的な観点を切り抜けることができるのだろうか】

いつからか韓国人たちは「グラミー賞」の新しい観戦ポイントとして、BTSが受賞するかどうかを取り上げるようになった。K-POPの消費者層分布は、ニューメディアとの結合を通じて世界的に広まっている傾向を見せている。 しかし、英米の文化とメディアの影響力を重視する韓国の状況の中で、欧米がK-POPをどのように見ているかの方により多くの集中がなされているのも事実だ。 これに関する研究や意見などが人文学系の学者たちから何度も出ているが、K-POPを長年享受者してきた人たちとは意見の分かれる教条的(現実や実際の状況を無視して、特定の原理や予め決められた結論に機械的固執する考え方)な立場だという批判を受けたりもした。BTSをはじめとするK-POPアイドルを分析する上で、多様な基準を課す試みを見せている。

 

その中でも興味深いのは、K−POPファンの存在と彼らが魅了されたK−POPの「クィア性(Queerness)」だ。これについて、国内の学者が「安全な男性性」をアピールすることで男性アイドルの戦略を分析し、これを男性アイドルのクィア性として数回指摘したことがある。 しかし、K-POPファンの地形内では「男性アイドル」がいわゆる「事故を起こすこと」に対する理解が不十分であり、断片的な解釈だという指摘を多く受けることになった。女性嫌悪的、クィア嫌悪的な発言で話題になったり、性犯罪に巻き込まれたりした男性アイドルが多数存在してきたためだ。

 

特に、海外での男性アイドルの人気を説明する際に安全な男性性、代案的男性性を「命名」することは、人種主義的観点からになり得るという問題が指摘される。 西欧中心的な見方から、アジアの男性がより安全で柔らかく美しい男性性をアピールできると読解するのは、KPOPが持つ文化的・音楽的特性ではなく、外部者の観点から見る人種的な見方が反映された結果かもしれない。

 

シンプルに、メイクをして飾る男性性を示すKPOPのイメージが代案的男性性を示していると解釈する過程では、2つの問題が発生する。 第一は、人種主義的にアジア系男性に課されてきたステレオタイプであり、第二はK−POPの原産地であるアジア人当事者たちにとっては、この男性性が常に安全だとは思われていないため、欺瞞的になりかねないということになる。 それなら、KPOPの「クィア性」は虚像であり、人種主義的偏見に基づいたイメージに過ぎないのか?

 

必ずしもそうではないといえる。 アジア諸国内でも、K-POPの「クィア的な雰囲気」を目にして楽しむファンが多いためだ。 しかし、読解に注意するような世界的な大衆文化としての位置づけを確立しただけに、人種とクィア性の交差的な脈絡を点検しながらK-POPに接近することで、全世界を対象にしたK-POP産業の新しい突破口を見つけることができると期待する。

 

クィアなK−POPは、K−POPの内在的・外在的状況とかみ合って形成される。 K−POPの内在的な要素、コンテンツ内のコンセプチュアルさやナラティブ、象徴的なイメージなどを通じてクィアさが創出されるのである。 実際、様々なミュージックビデオのリファレンスがクィアジャンルの創作物(映画、小説、写真など)であるケースが多数あり、ミュージックビデオの叙事、パフォーマンスなどでクィアな要素を追加する場合も多かった。ジェンダー規範の境界を越え、曖昧にするアーティストも登場する。

<RED VELVETのアイリーン&スルギの「Monster」はレズビアニズムを象徴するミュージックビデオを披露した>

近年はクィア文化の一種であるダンスジャンル(ワッキング、ヴォーギングなど)やドラァグをミュージックビデオや舞台演出に活用するケースも増えた。 さらに、クィアの当事者たちで構成された様々なパフォーマーたちと一緒に作業するKPOPアーティストも次々と登場している。

<チョンハの「Stay Tonight」ミュージックビデオはヴォーギングジャンルの振り付けを披露した。 一緒に作業したダンサーチームはクィア当事者からなる「カミングアウト」ダンスクルーだ>

これはニューメディア時代を迎え、外在的な状況ともかみ合うことになる。 海外市場の場合、多様な社会的少数者(マイノリティ)が楽しむ文化の一つとしてKPOPが定着したのだ。 代表的な例としてBlack Live Matter運動がSNS内でも話題になった時、国を問わずKPOPファンの間で連帯が要求された状況を挙げることができる。 実際、多数のKPOPエンターテインメント会社やアイドル個人が支持意思を表明したり、寄付の事実を知らせたりもした。 マイノリティ文化の一つにKPOPが挙げられ、消費者のニーズの一つに「マイノリティ」に対する認知とプライドなどが求められている現象と見ることもできる。

 

<BTS、CL、GOT7のマークをはじめとする様々なK-POPアーティストたちがBLM運動への支持を表明した>

 

国内でも、KPOPのクィア的な視点を論じるセミナーが開かれたりもした。 ソウルセッションで進行した「Queerdology」がそれだ。 もちろん、K−POPが創出する多方面の「クィアベーティング」(フィクションやエンターテインメントのマーケティング手法で、同性愛やその他のLGBTQ表現をほのめかすものの実際には描写しないこと)であるという議論が起こったりもした。 実際、クィアの社会的マイノリティ運動やプライド、苦情などについては論じず、クィアという特殊なイメージと利点だけを活用する欺瞞的な行為だという話だ。しかし、メディアの多様なレイヤーと解釈主体がサブカルチャーと連動するという点を考えると、企画の意図と実際のアイデンティティはメディア再現の真実性と歩調を合わせてこそ意味があるとは考えにくい。 このような見方がクィア当事者の中にも現れ、クィアをKPOP内で発見し享有する行為自体も、新しいクィア共同体の遊戯の一つと見ることもできるようになった。

 

このように、クィアなKPOPについての議論は、国内外で多角的な脈絡を持っている。 したがって、上記の人種主義的要素に基づいたクィア的解釈ではないかという疑いは、もう少し探求してみる必要があるだろう。 西欧的な見方のベースに、国家・民族・人種的な背景がないとは断言できないからだ。 西欧におけるアジア系人種の男性は、人種的特性を理由に他の人種の男性よりも非男性的だと考えられていた。このような背景を削除したまま、「クィア」として読解されるK-POPの身体性を強調する欧米の享受者たちに、人種主義的な見方が全くないとは言い難い。

 

しかし、私たちはこのような長年続いてきた人種差別的な見方を一瞬にして完全になくすこともできず、すべての個人に「無欠な」方法でK-POPの解釈を要求することはできない。 それなら、私たちはK-POPの解釈地形をどのような観点で理解するべきか? ジェンダー的人種、人種的ジェンダーの交差が歴史的に構成されたという事実に集中する必要がある。

 

これに対する代表的な例として、第2次世界大戦前とその後の米国内での日本人男性に対する「イメージ」の変化が挙げられるだろう。 日系移民者をはじめとする東洋人男性の存在が、戦前には米国の主流の集団にとってはいかなる社会的脅威にもなりえなかったため、「危険でない」「非男性的存在」とされていたのである。「危険ではない」という描写には、女性嫌悪的でクィア嫌悪的な背景は含まれるが、「白人女性と同じ空間にいても白人女性には性的暴力を振るうことがないのが東洋人男性」だという見方だったのだ。

 

しかし、第2次世界大戦勃発後、日系男性に対するイメージは急激に変化する。 戦争当時のプロパガンダが描かれたポスターからこれを確認できるが、日本軍に対する警戒心を形成する方法として「白人女性を性的、物理的に脅かす日本人男性」のイメージを描写することを選んだのだ。 これがジェンダー的にも人種的にも問題のあるプロパガンダであることは、現代の視点でははっきりしているようだ。 もう一つ集中すべき点は、非男性的と考えられる「フェミニンな人種」として東洋人を典型化することも、歴史的に「創られてきたもの」だということだ

 

結局、脅威的に分類され得る「男性性」も、社会的な規範と文化的なイメージに過ぎず、絶対的で固定的ではないことが分かる。 これは人種的イメージにも該当する、構成された「規範」にすぎない。 差別的に形成された規範と偏見に対抗して戦うことは、「規範」というものが絶対的なものではなく、主流集団の権力を容易にするためのヘゲモニー的作業にすぎないことを認知することから始まる。 人種主義とジェンダー間のつながりの歴史が悠久的なものであることは事実だ。 しかし、それもまた、構成された人間のイデオロギー的産物であることを指摘したい。 これにより、韓国内でのこれらの事柄に対する無力感を克服し、立体的な解釈への跳躍点を発見できるものと信じる。

 

差別的視線と結びついた規範やイメージを、今この現実で一瞬にして撤廃することは不可能なことだ。 だとすれば、規範の解体は多角化した解釈と批判を通じて可能なことであり、K-POPクィア性はそうした点で十分に文脈化が可能だと思う。 単なる人種のためにクィア的とされるのではなく、様々な身体の登場とそれ相応のコンセプチュアルな装飾、パフォーマンス、ナラティブなどでクィア性を具現化することがK-POPでも行われているからだ。

 

このようなクィアな再現(representation)に、エンターテイメント産業そのものも心血を注いでいると考えてみよう。 これにより、人種差別的なジェンダー規範に対するクィア的な専有を可能にするだろう.。これを通じて、世界的に社会的マイノリティたちの核心的な代案文化となり、アイコニックなエンターテイメント産業の一つとして位置づけられるようになることを期待する。

 

もちろん、この過程で性的対象化と労働搾取的なK-POPエンターテインメント産業の本質的な問題も指摘され、変革される必要がある。 K-POPは、読んだり聞いたりする人にとってはすでに「クィアポップ」として存在している。 しかし、さらに積極的にクィアポップとして跳躍するK-POPが期待できるだろう。

 

参考:ソウルクィアセッション主催「Queerdology」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーKPOPが西洋圏で注目されるようになってから

「KPOPのクィア性」という話の時にまず男性アイドルのメイクやルックス、あるいはファンサ的な振る舞いについて「既存のマッチョイズムに対抗するもの」というような話がフェミニズムやLGBTQ+目線から出る事が多く、それに対して韓国内の同様の当事者からは「欧米の基準で見てそうだとしても、韓国の文脈的にはメンズメイクはルッキズム派生からでありクィアネスやジェンダーフリーの概念からではない」「そのような見方こそが大元の社会文化に対する無理解・無知からくる欧米視点のもの」「むしろそのような捉えられ方を、欧米ウケのために利用したり、表層的にのみ利用する事の方が問題」と、特に男性アイドルについては多くの指摘がされてきてた印象があります。

(クィア・ベイティングについて参考記事:https://front-row.jp/_ct/17278815)

 

確かに、本当にその部分に根ざしたポリシーがあるのであれば「グループでの仕事」単位での表明にとどまらず、メンバー個人がそれぞれ気にかけていますよという事普段から表明したりとか、ビジネス面でのデザインやパフォーマンスにそのようなアーティストやパフォーマーを採用するなどの方が「真正性」は感じられるとは思います。リスナーやファンの多くを占めるであろう層への「ウケ」のために表層的な「態振る舞い方」としてそういう社会的・ジェンダー的イシューを織り混ぜているのかどうかは、ぶっちゃけメンバー個々の動きを見ていれば特に同じ文化言語圏で育っている人たちには容易に「バレる」ものだと思いますし、それが「国外と国内の捉えられ方の差」という形としても出てくるんだろうと思います。

クィア性について語るなら、例にも挙げられてたRVやチョンハ、あるいはaespaみたいな女子アイドルの方が表現的にも先に行ってる感はありますし、実際韓国では女子アイドルの目線からクィア性を論じる方が多いのに、逆に国外では女子については「ガールクラッシュどまり」くらいでそういう視点はあまりない感じ。ぶっちゃけ、海外での「クィア性」を特に気にしている層が女子アイドル・男子アイドルどちらの方により注目しがちか(好きでよく見ているのか)という部分のズレなども関係あるのかもしれませんが...

それに、もともと韓国の社会文化的に同性同士のスキンシップや距離感が近いというのもあって、そういう微妙な違いを知らずに、あるいは無視することは同じアジア系同士でも微妙な齟齬や解釈違いの原因になりかねない部分でもある気はします。


しかし、「表層的」だったり無自覚にそういう要素を取り入れる事が全て良くないとも言えないと思うのが、例えばLGBTQ+の当事者やジェンダーについて日頃気にかけたり考えている層から見れば「仕事の場やグループ・事務所単位では発言するけど、プライベートや個人としての発言や振る舞いにはそういうものは見られないし、事務所にしてもそういうアーティストやパフォーマーを積極的に採用するわけでもないので、所詮はファンや世間ウケのポーズに感じる」と思うような事でも、まったくそういう事すら考えたことのなかった層に対する啓蒙とか新しい気づきのきっかけになることはあると思うので。そして、ファンや外部からの評価によって逆にアイドルや会社の側がそういう事柄に対して自覚的になる事もあるんじゃないかとも思います。そもそもそこまでアイドルというか芸能人に全てを表明しろというのも人権的に問題があるように感じますし。そういう中で表向きや仕事の時に気遣いのある振る舞いをするというのは、それがbehaviorにしろattitudeにしろ必要な事ですから、振る舞いから入っても悪いことはないと思うのです。勿論、そのような要求に応える気があるのなら段階的な学びは必要だと思いますし、事務所の側もそれに類するコンセプトをするならばアイドルにきちんと伝える事は必要でしょうけど。

そして、ファンや大衆も「それが表層的な振る舞いなのか否か」という事には固執しすぎない事も重要かもしれないです。アメリカみたいにセレブが自分をとことん曝け出して商品化することは韓国ではほとんど難しいですし、アイドルでは尚更で、そういう環境で振る舞いに矛盾が生じた場合の指摘は必要だと思いますが、アイドル/芸能人思想や振る舞いが表層的か否かという、人格として断定する事はそれが「いいもの」か「悪いもの」かという事には関係なくファンや大衆的には不可能なはずだし、追求する権利もないはずだという事です。


日本のアニメもアメリカでは黒人層に人気があって、アニメキャラを黒人化するハッシュタグなんかもありますけど、その辺も「アニメ」という人種も設定も欧米圏的な価値観や文脈からはフリーダムな文化だから出てくる事でしょうし(それ自体の是非は別に議論が必要ですが)、かといって日本のアニメが人種的ジェンダー的イシューに敏感かというとそういう事でもなく、異なる価値観がベースにあるからそれが単純に異文化からみたら「自由」に見える部分もあるのかなと思います。異文化でマイノリティの拠り所となる文化が本国ではそういう文化という扱いではないという。でも、そういう反応から逆に制作側が「気づき」を得てクリエイター側が反映したりという事もあると思いますし。

(NETFLIX聖闘士星矢のように、そういうことじゃないのでは?という反映のされ方になってしまう場合もありますが...そういう経験もまた気づきへの道)


文中に出てきた、ファンやカルチャーの長い歴史を無視して人文学的な視点からのみ論ずる事が「教条的だ」という話は日本や他の国でもあると思うんですけど、要は何か書きたい結論ありきで、現場感覚や歴史を軽視して自分の理論やフックのために「アイドルやファン文化を利用している」と感じる人たちもいるということでしょう。特に「先行してオタクには人気が高かったけど、ある程度時間が経ってから一般人気の出ちゃったオタクコンテンツ」あるあるかもしれないですね。