サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【質問箱】元iKON・B.I.の作る曲について

【質問箱への投稿より】

こんにちは。BIGBANGの弟分という印象だけがあり、ふとiKONの曲を聴きました。(iKONのサバイバルは2つとも去年見ました)
そこから作詞作曲を全て行なっているハンビンの事を知り、彼が昔、未発表曲(デモ曲)をこっそりSoundCloudにアップしてた事を知ってよく聴いています(今は彼のアカウントからは全て消されましたが...)どれも切なくて投げやりで悲しくて優しい曲でした。脱退してしまってから3曲ほどアップされました。iKONは元気いっぱいという印象が強いのですが、悲しい曲がとても多いですよね。ハンビンの作詞作曲について、印象、音楽の方向性など純粋に泡沫のような有識者の意見を聞いてみたくて質問させて頂きました。iKON関連の質問回答はできるだけ目を通したつもりですが、以前記事で、ハンビンはサバイバルで負けた相手のデビュー曲を手掛けたがなかなか残酷...というのがとても印象に残っております(しかも相手はデビュー曲なのに暗い、そして大ヒット)
漠然とした質問で申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

 

https://odaibako.net/detail/request/4d4a3bbb4de74cb490fc2ebb1c2b36b7

 

なんか長くなったのでこちらで失礼します。

 

確かにiKONというとアッパーだったりswagなヒップホップだったり元気でお祭り的なイメージが強いですが、B.I.が作るiKONの曲の本質はむしろ、CLIMAXとかEMPTYみたいな方にあるんじゃないかと思っています。

 

soundcloudにある曲もですが、実際に韓国内でもヒットした楽曲もmy type とかLOVE SCENARIOとか、切なくてメロウな楽曲に決してポジティブではないけどリアリティのある繊細な心情が織り込まれた楽曲が多いですしね。もちろんライブでファンと盛り上がる曲とか、カッコつけたswagでキメる曲も必要ですし、彼の中にもある要素なんだろうと思いますが、韓国語ネイティブの「大衆」から幅広い支持を受けたのはそういうさみしくて明るいとは言えない曲が多いです。

 

韓国のアイドルは自作の場合、どうしても語れる事とか表現に限界があったり型にはまった表現にならざるを得ない事もあると思いますし、特にいわゆる「自作曲」では「(芸能人として)他人に見せるためのリアルっぽく見える感情」みたいに感じられる歌詞もあったりしますけど、個人的な感想としては、確かにB.I.が作る曲には作り手のリアルな感情が見えるというか「作家性」みたいなものを感じます。凝ったレトリックや難しい隠喩はなくても(韓国の詩人の引用などもありますが)より多くの人が共感しやすい言葉とか感情がスッと入ってくるような表現で描かれていて、いい意味で普遍性があると思います。LOVE SCENARIOの「僕の残りの人生の中で時々脳裏をよぎる記憶/その中に君がいるなら それで十分さ」とかHUG ME(個人的に好きです)の友達に片思いしてる事を「そばにいるときは友達 俺一人の時は恋人(韓国語では片思いの相手も恋人というので)」と表現したりとか、曲との相乗効果でわかりやすいけど独特の感性があって、でも一般人的な感覚は失ってないというか「普通の若者」感があっていい歌詞だなと思います。


ご質問に出てきた「EMPTY」ですが、これは当時チームBとして負けたB.I.が「楽しかったステージを降りたあとの虚しい気持ち」を表現した曲だと後で知りました。デビュー当時に聴いた時はビハインドを知らなかったのでこんな渋いライバルチームの作った曲をデビュー曲にするのは珍しいというか、どういう意図なんだろう?残酷なのでは?と思いましたが、全体的にフラットなこの曲の良さを最大限に引き出す事が出来るのは全員の声のトーンが違って個性が際立つWINNERの方だろうとも思うので、この曲をあえてWINNERにやらせた事は正解だと思います。

この「ステージから降りたあとの虚しさ」という話は以前訳したアイドルメンタルヘルスについての記事(http://nenuphar.hatenablog.com/entry/2017/04/20/185256)にも出てきました。

C君は「ステージから降りた瞬間から、大きな空虚さが訪れる」と言っていました。 その話を聞いて、アイドルたちはステージの上に限っては少なくとも「安全」だと感じているようだと思いました。 熱烈な歓呼と強く照りつける照明を受けている間だけは、現実で向かい合うあらゆる苦悩を忘れられるでしょうから。 自分をさいなむすべての憂鬱と強迫的な環境から、この職業を選択した自分に対する恨みから、唯一自由な瞬間なのではないでしょうか。 実際にマイケル・ジャクソンが最高の人気を謳歌していたころ、あるインタビューで「幸せですか」という質問が出ると、彼は「一度も幸せだと思ったことがない」と答えたそうです。 そしてこのように話したそうです。
「パフォーマンスをしている間は比較的解放感を感じる」

 

「ステージから降りた瞬間に感じる虚しさ」という感情って、アイドルにしてみたらまずファンには見せないし見せられない「本当の感情」のひとつなのかもしれないと思います。大なり小なり、アイドルだけではなくステージに立つ仕事の人たちの多くが持つ感情かもしれません。そういう裏側のリアルな感情を勝者の側のWINNERが歌う事で、サバイバルの時の記憶がデビュー曲に刻まれると同時にまだデビューが決まってなかった(ひょっとしたら裏では次のサバイバルは決まってたのかもしれませんが)チームBとチームAが共感出来る感情を共有出来て繋がっている曲のようにも感じます。

そういう「真にリアルな感情」を曲にダイレクトに込めながらも、一見すると恋愛の歌のようにも聴こえるように仕上げているのがすごいと思ったし、一度その舞台裏を知った後で聴く曲と歌詞は、特にあのサバイバルを見た人やショウビズにかかわる人であれば相当胸に迫るのではないかと思います。私はポップな体裁を立派に持っていながらも実際自分の話をリアルに織り込んで、結果的に自分の話と他の人の話を共有出来るような楽曲にアーティスト性を感じる方なので、この曲の裏側を知った時は本当にアーティスト気質のある人なんだなと感じました。

(恋愛に関しては母胎ソロという事でほぼ想像で書いてますとの事でしたが...)

 

自作アイドルは多くいるものの、本当の意味で曲を通して寂しさとかみっともなさみたいな、泥臭くもリアルな自分の感情や気持ちを表現して、ファン以外の市井のリスナーとも共有できた数多くはない貴重なアイドルメンバーでありクリエイターだったんじゃないかと思います。ご質問者の方の「切なくて投げやりで悲しくて優しい曲」という表現が本当にその通りだと思いました。

【rhythmer訳】[国内レビュー] Baekhyun(ベッキョン)「Delight」

[国内レビュー] Baekhyun(ベッキョン)「Delight」

http://m.rhythmer.net//src/magazine/review/view.php?n=19010
2020-06-16


アイドルメンバーがグループを離れてソロアルバムを出す時、一番先に考慮しなければならない点は自分の魅力である。グループ・カラーに埋もれていたアーティスト固有の色を取り出すべきであり、そうしてこそ、グループではなくソロアルバムを出す名分を打ち出すことができる。 大半がチーム活動でしていないジャンルをソロアルバムで駆使しようとするのは、そのような理由からだ。

ベッキョンも同様だ。KPOPグループ「EXO」内のプレーヤーではなく、ソロアーティストとしての姿を見せるため、普段好むジャンルのR&Bでソロアルバムを埋め尽くした。 「Delight」は彼が「City Light」ぶりにリリースした2枚目のソロアルバムでありR&Bアルバムである。

 

ベッキョンのアルバムはいつも華麗なラインナップを誇る。 今回のアルバムには、プロデュースチームのStereotypesが前作に続いて参加し、レディー・ガガ、クリス・ブラウンなどのアルバムを手がけたマイク・デイリーもラインナップされた。 この他にも著名なプロデューサーの名前がぎっしり並んでいる。 janeやColdeのような国内のR&Bアーティストも名を連ねた。

 

そのおかげで、アルバムはうまく進行されている。シンズサウンドが夢幻的な雰囲気を醸し出す「Candy」からトラップビートにブラスを組み合わせた「RURidin?」、ギターと穏やかなドラムサウンドで比較的シンプルに構成された「Love Again」まで、PBR&Bに基づいたプロダクションと流麗なメロディーが各トラックで際立っている。 特に、「Bungee」ではピアノの旋律を柔らかく溶け込ませジャージーなムードを作り出し、「Poppin'」では8bitベースを使って聴く味を生かした。

 

ただし、いくつかの曲でのボーカルは残念だ。 グルーヴィーなビートとその上に乗せられたメロディーと調和しないまま、そっと空回りしてぎこちない。 ベッキョンは柔らかくて淡白な音色が特色であり、強みのボーカリストだ。 そこに強固な力もある。 2016年スジとともに出した「Dream」や赤頬思春期と共に歌った「蝶と猫」ではその長所がはっきりと現れている。 EXOの曲でも同じだった。 ベッキョンは柔らかくて強いボーカルで曲全体の雰囲気をしっかりつかむ役割をした。 しかし、本作ではそのようなメリットは現れない。 不自然でさえある。

 

歌詞の側面からも物足りなさがある。 例えば、「隣にいるの?」と聞いた後、「僕のかな?」と聞く歌詞は、単線的で感興がわかない。 「君の愛は最小限の息/僕の両手を握った絆」のように比喩が印象的な「Underwater」と、話者の心象が明確に描かれる「Love Again」のような後半部の曲を思い浮かべると、前半部の曲の歌詞的な部分での物足りなさがより濃くなる。

 

歌詞の面で一番特記すべき曲は「Candy」だ。この曲での甘さの対象は、他者ではなく男性話者である自分自身だ。 男性話者の歌詞には通常、女性性を甘さで形象化した後所有するという態度が溶け込んでいた。 しかし、「Candy」ではその関係が覆された。 これに加えて話者は女性リスナーを誘惑するが、選択を待つ受身的な態度を持つ。 自ら選択しなければならないと強要しない。 誘惑の道具もまた、ほのかに広がる「ポケットの中の香り」だ。 力、社会的地位、財力などで女性を所有しようとしない。 社会的男性性が排除された誘惑を描いている。

 

「Delight」はトレンディで洗練されたプロダクションが引き立つアルバムである。今日のメインストリームR&Bサウンドをよく表現している。 しかし、それだけに他の作品でも簡単に接することができる音楽でもある。 更に、彼のキャリア内でもこの程度のプロダクション的な完成度は、まさに前作で触れることができた。 今回のアルバムのプロダクションは完成度とは別に、ベッキョンの魅力をうまく表現するにぴったりな道具ではなかったようだ。

 

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PBR&B=Pabst Blue Ribbon(ビールの銘柄)+R&BオルタナティブR&Bとも呼ばれる。

(I Started a Joke: "PBR&B;" and What Genres Mean Now | Pitchfork)

アーティストで言うとThe Weeknd、Frank Ocean、MiguelやDrakeなどが入るらしい。

 

rhythmerは歴史のある韓国のブラックミュージック専門メディア(韓国ナンバーワンブラックミュージックメディアと自称しておられる...)なのですが、それだけに記事の中でアイドル関連の作品をレビューするのは珍しいので訳してみました。顔出しだからなのかYouTubeの方は結構日和ってる感じがしますが(コメント欄見てもツッコミが...) 元々率直で辛辣な批評でも有名なメディアだと思います。

【質問箱】TXTの"Can't You See Me"のMVについて

【質問箱への投稿より】

TXTのCan't You See MeのMVに対して、過剰な少年売り、少年性の性的消費や搾取であるとツイートしている方々を何人か見たのですが、泡沫さんはjこのMVや性的消費についてどう思われますか?
私は最初見た時に好みだな〜と思うくらいでその他に特に感じた事は無かったのですが(考えが浅いのかも知れません)、あとからツイッターで評判を見てみるとこういった事(少年性について)が割と書かれていて、どういう事だろう?と疑問に思ったのでお題箱に入れさせて頂きました。

 

https://odaibako.net/detail/request/7dbac6b775c64258a4dde10bb13da2a0

 

このMVに関していえば「まあそう言われればそうかもしれませんけどもね...」というのが正直な感想です。自分は見終わった後最初にやった事が「スペイン トマト祭り」での検索だったので...
(何か祭りに意味があるのかなと思ったんですが、「開催中止」って出てきました)

MVの中に特にあからさまな露出や性的表現・暗喩があるわけではないと思うのですが、衣装とか表情とか撮り方などの演出やコンセプトの部分でそう感じ取った人たちがいたという事ですかね。しかし、「過剰な少年性」が「性的に消費・搾取されている」事をあの中から感じとれたという事は何だかセクシーというかエッチな感じたという事でもあり、つまり直接的な露出(半ズボンが性的か否かという部分は議論がわかれるところだと思いますけど)や性的表現・暗喩があるというわけではないものから性的なものを読み取れるという「選ばれし者」しか感じ取りにくい表現ではないだろうかと個人的には感じるのです。ですので、ご質問者の方がどういう事だろう?と思ったということはむしろ「健全」なアンテナの持ち主のように私は思います。特に未成年が演者のエンターテインメントにおいては性的な表現には敏感であるべきだとは思うのですが、「少年性の性的搾取」というのがよくわからないというのはこのMVに関してはは「わかる」必要まではないのではないかと思います。成人として少年や少女に性的な魅力を全く感じた事がない人にとっては、少年性や少女性を扱う事の危うさと言われても全くピンとこないと思いますし...ただ、「そういう風な感じ方・捉え方もあるのだ」という事を知るだけでいいのではないでしょうか。

 

少年性を過剰に物語的に演出してストーリーとしてリアルな未成年に大人が演じさせるという構図にグロテスクなものを感じる人もいるだろうとは思うのですが、大人の演出が入っていないアイドルは存在し得ない(韓国ではそうだと思います。日本のインディーズアイドルとかなら別かもですが)し、未成年が「等身大」をコンセプトとする場合は少年性や少女性はある意味で不可欠だと思います。それがどのような表現方法であれパフォーマンス化する事で「消費」されることは大なり小なり避けられないのではないかと自分は考えています。「性的に消費される事」には「性愛の対象としてみなすこと」が含まれると思いますが、「アイドル」という存在に「性愛の対象として魅力的である」という事が配分はどうあれほぼ必ず含まれるのだとすると、「未成年のアイドル」は存在自体が「少年性(少女性)を過剰に演出されて性的搾取されている存在」とも言えると思います。だから「未成年のアイドルは大人として魅力を感じづらい」という文脈ならわかりますが(そもそもどういう意図でそれらの言葉が使われているのかは実際見てないのでわからないまま書いてますが)、未成年アイドル全般についての問題には触れずにこのMVのみピンポイントで批判しているのなら賛同はしかねる感じです。SEVENTEENのADORE Uや防弾の花様年華NCT DREAMのチューインガム等と比べてTXTだけに「少年性売り」を見出すのは理屈が通らないのではないかと思うので。これらが全部アウトと判断なら筋が通っていると思いますが。

 

「アイドル」というものの定義というか、根本の意味を考えると、特に未成年のアイドルの演出のされ方には敏感にならざるを得ないし、それを敏感に感じとれてしまう感性の持ち主は逆にそういう演出のターゲットでもある(匂わせも感じ取られなければ意味がないので)と思いますから、余計に自戒の気持ちは常に必要かもしれません。ただ、これが難しいと思うのが、あからさまな肉体の露出や性的な表現、暗喩などがはっきりあるわけじゃないけど「見る人が見たら色気(性的なもの)を感じる」というものには明確な判断基準がないので、受け取る側のさじ加減次第でどの様にもとれてしまうという危険性はあるのではないかという部分です。「これは大人が考えた少年像を押しつけで表現しているので良くない」「これは本人たちの素のままの姿だろうから良い」「これはいやらしくなく爽やかでピュアだから良い」「これはなんだかイヤらしいから良くない」という風に、ただ個人の感性に基づいて裁く事は私は納得いかない方です。その人が感じるところの「爽やかでピュア」な方により性的なものを感じる人もいるかもしれないし、それが多数派なのかどうかは関係ないと思うので。そもそも未成年というだけで性的魅力を感じる人もいると思います。個人の好き嫌いや嫌悪感という部分ではしかたないと思うのですが、それを主語の大きすぎる話に即転換するのは安易すぎる気がします。


「響けユーフォニアム」という女性の作者が自身の経験をベースに書いた青春吹奏楽部ものの人気ライトノベルがありまして、その作品のアニメ化作品についてこの様な事がありました。(https://m.huffingtonpost.jp/kaoru-kumi/otaku-culture_b_8746632.html)
この筆者の方の書いていることに全て賛同するわけではないのですが、この様に「本質的にはポルノグラフィー的な目的で作られたわけではなくても、ポルノグラフィー的にも読み解けてしまう」という事もいくらでもあると思いますし、だからこそそれも踏まえた表現への覚悟や論理・理由づけが重要という事は理解できます。しかし一方で、「性的消費が目的でないものをあえてポルノグラフィー的に読み解く行為」そのものが逆に、性的加害になりうる可能性も時にはあるんじゃないかと思うのです。

個人的には直接的な露出や性的な絡み・明確な性的暗喩があるわけではないものを「断罪」するには基準が曖昧すぎると思うので、「性的搾取」のような強い言葉で表現するほどではないと思います。ですが、「そのように解釈する人もいるかもしれないけど違うといえば違うかもしれない」というレベルの曖昧で意味深な表現・演出方法は、特にアイドル業界においては対象を魅力的に見せるための仕掛けとして仕込まれている事は多いと言う事は、頭に入れて置いてもいいのかもとは思います。

 

TXTに関してはデビューから一貫して未成年ならではの「少年性」をイメージコンセプトとしていますが、BigHitは防弾少年団の頃から方向性は違えど「少年性」の表現に全力を傾けてきた歴史があるんじゃないかと思いますし、その過程で時には性的な表現も避けてこなかったと思いました。思春期の性について描写したBTSの「ホルモン戦争」は当時かなり物議を醸しましたが、表現方法やアイドルがテーマとしてとして扱うことの是非はともかく、「思春期のリアル」を描くにあたって本来ならば避ける事の方が不自然であるはずの「性」をテーマにした事そのものはエピックだったんじゃないかと思ってます。ただ、その表現方法には割と問題があったというかへたくそというか、「あまりにそのまんますぎでは」という事はあったと思います。例えば「オタクが好きそうなやつ」の一言で伝わる人には伝わるかもしれませんが(わからない方はすみませんが特に説明はしません)、そのような要素を扱う時にも、SMエンターテインメントなどはそのままはわかりづらいように斜め上からひねってくる事が多い(ひねりすぎてよくわからないことになってる場合もありますが)のに対して、BigHitは割と「(オタク目線的には)そのまんまだな?」という出し方が多いように感じています。「適度なオタク的深度はありつつも実はわかりやすい」からこそ、マスにアピール出来てきた部分もあるのかもしれませんが、時にオタクが良く言う「好みな世界のはずだけどあからさますぎて萎えた」ということを詳しく言うとそういう理由だった=あからさますぎて性的なものをダイレクトに感じとりすぎてしまったので、ときめきや萌えよりも罪悪感や嫌悪感の方が勝った、という事もあるかもしれないと思いました。オタクは良くも悪くも1から100を読み取って妄想(連想)を広げられるものだと思うので。

 

 

【メディアSR】[インタビュー]女子アイドルの限界を破る...「Queendom」プロデューサー チョ・ウリ

【メディアSR】[インタビュー]女子アイドルの限界を破る...「Queendom」プロデューサー チョ・ウリ2019.11.11

http://www.mediasr.co.kr/news/articleView.html?idxno=55402


可愛さ、あるいはセクシーさ、よく女子たちはこの二つの修飾語で定義づけられたりする。彼女たちがそのような枠組みを拒否しても、長い間固着してきた市場論理は「女子アイドル」に望むイメージを規定し、彼女たちの新しい試みが生まれる事さえ許さないようにする。こうした状況でMnetの「Queendom」の登場は喜ばしい。女子アイドルに新しい試みを思いきりやる機会を与えることで、「Queendom」は対象化に終わってしまう女子アイドルに主体性を与え、新たなページを切り開いた。可愛くなくてもセクシーでなくても、彼女たちのステージは本質そのままを代弁し、「素敵だ」という感嘆詞につながった。「Queendom」の舞台演出を担当したチョ・ウリPDに会って、熱かった彼女たちの舞台裏を覗いてみた。

 

Q.「Queendom」は、普通の音楽競演プログラムとは違うという評価を受けています。特にステージにおいてはこれまで繰り広げられていたステージではなく、一つのショーとして授賞式のような雰囲気を出していました。


Mnet チョ・ウリPD(以下チョ・ウリ):「これまで出演した方々が見せていない姿を見せようとする事に最も力を注ぎました。小さなステージを限定的に使って前面だけを志向し、カメラのワンショットに特化した振り付けで構成されるなど、一般的な音楽放送のステージ文法があるとすれば、「Queendom」の競演ステージはその文法に従おうとしなかったのです。ステージ全体のデザインと構造を組むときよりもっと広く使えるように3面を活用したり、ブリッジを活用して多様な構成をしようとしていました。ショーアップが上手な先輩PD方がいて、私もやはりM countdownとMAMAの経験があるだけに、ステージ自体のスケールが感じられるパフォーマンスを組もうと思いました。


Q. そのためか、「Queendom」の舞台では空間感が大きく感じられたんです。他の音楽放送とは違って、カメラまでがステージの要素になったように動きが自由だったし。  舞台演出面で最も満足できる部分はどこでしょうか。


チョ・ウリ:スペースの活用です。スタジオの規模は一般の音楽放送とほぼ同じでしたが、多様なアングルを使い、カメラの動線を最大限に活用して最大限広く使おうとしました。現場にいらっしゃる観客の方々と視聴者の方たちという2つのターゲットのなかで、視聴者の方により親切なやり方だと思います。アーティストの方々からはやはりカメラアングルを見ているだけに、視聴者の立場からだともっと新鮮に感じられたと思います。もちろん、現場の観客の方々の「没入度」も崩さないように、多方面でカメラの動きに気を使いました。

 

Q.リアリティ部分を通じてアーティストたちが直接ステージを組む姿が出たりもしました。

 

チョ・ウリ:すべてのチームと最大限多く対話を交わそうとしました。競演曲のデモ、スケッチの段階から多くの話を交わしながら初期コンセプトを練りました。舞台と舞台を越えてブラウン管でも見られる形の演出をしなければならないだけに、アーティスト側から曲が出たらプロデューサーとアーティストの意図と自分の考えをうまく組み合わせて最大限明確なコンセプトを引き出そうと思いました。仮想のシノプシスのように毎舞台ごとに1〜2行程度のキャッチフレーズを握って、ストーリーテリングを示そうとしました。「この舞台は演劇的モノローグで独白感を活かすこと」「韓国的要素があって月がキービジュアルな舞台」というような内容ですが、各チームの特徴とカラーを最大限浮き彫りにしようと緻密に努力しました。

 

Q.演出家として各チームのレジェンド・ステージを挙げるとしたら。

 

チョ・ウリ:(G)I−DLEは「LION」、MAMAMOOはAOAの「Good luck」カバー、AOAは「Egoistic」、Lovelyzは「Cameo」、OH MY GIRLはLovelyzの「Destiny」カバー、パク・ボム氏はファイナルの舞台だった「取り返しのつかない」を挙げます。

 

Q.パク・ボムさんの舞台は象徴的な要素が満載だったようです。たとえば、主人のいないマイクと一緒に配置されたボム氏の姿は2NE1を連想させるし、歌詞にもそういうムードが十分に敷かれていたと思います。

 

チョ・ウリ:その曲のデモ初期バージョンから一緒に聴きながらコンセプトを一緒に掴んでいこうと努めましたが、パク・ボムさんは一人で競演の大変な過程をこなしながら、最後のピリオドをうまく撮りたがっていました。それだけに負担も大きく悩みました。そういう要素から、2NE1について語ろうとしていたというよりは、一人のアーティストがグループ時代を経験し今は独り立ちしようとしている状況で、過去の自分と今の現実での本人、それ以降の位置づけをしようとしている自分自身に贈る一種のモノローグドラマ的構成を考えながら配置したものです。

イントロでの鏡のシーンや過去のグループシーン、一人で立ってフィナーレを歌って自分の足で踏み出し上がるなど、4段階の場面で構成した舞台にも関わらず、大衆が受け入れてくれました。感動がある舞台でしたね。直接的な言及よりも隠喩的な表現が有効だったと思います。パク・ボムさんもそのような部分について悩んだようです。

 

Q.(G)I−DLEの「LION」の舞台はガールズグループのパフォーマンスに一線を画したという評価を受けました。果敢で破格的な試みが、(G)I−DLEのメンバーたちと完璧に合致しましたね。

 

チョ・ウリ:まず、ソヨンさんはあまりにもアイデアが溢れていて、すでに構想までされていた状態でした。「LION」はデモの段階から本当に素晴らしい曲だと思いました。放送のようにその曲は以前の競演段階からあらかじめ作られていて、歌自体が一編のストーリーだったので、それを生かすためにビジュアルとコンセプトを最大限尖らせていこうと思ったんです。ソヨンさんとも会議をしたのですが、直接PPT(訳注:プレゼンテーション)を作ってきたのが印象的で、またすごかったです。普通の人たちが考えているアイドルのイメージは限定的だけど、私が一緒にした6チームのアーティストたちはすべてそうしなかったんですよ。

ソヨンさんは、女王と獅子のイメージを変えないよう、うまく組み合わせたいという悩みが大きかったです。それで、会議を通じてVCRを置いて全体のトーンを中世ゴシック様式のステンドグラスのイメージで統一する方向で意見を交わしました。「ライオンキング」のイメージと中世の女王のイメージがよく混ざりあっていると思います。ジャンヌダルクのイメージを構想していましたが、思ったとおりにうまく具現化された本当に素敵な舞台だと思います。このステージのほかにも、「Put It Straight」もホラーな雰囲気のコンセプトすべてがソヨンさんのアイデアです。本当にすごいと思いました。

 

Q.Lovelyzは最も紆余曲折の多かったチームだと思います。初期には方向性がうまくつかめず酷評されましたが、ついに自分たちがやりたいことと最もうまくやることをまとめることができましたね。「Cameo」がまさにその副産物でした。

 

チョ・ウリ:そうですね。Lovelyzは意図しなかったんですが、浮き沈みやさまよったりというストーリーラインがありました。この方たちが経験したことを考えると、「Cameo」は自分たちがやりたいことをやってかっこいいということを見せるという意志の表明だと思います。選曲の悩みも大きかったと思います。ただ可愛く「彼氏と付き合いたいの」とか「私と会わない?」という歌ではなく、自分たちがうまくやっていることを見せるから大衆に理解してもらいたいという感じがあったんですが、それが受け入れられたと思います。私もやはり気持ちが良かったです。Lovelyzが今できる最善を尽くしたということが十分に感じられたし、本人たちもそう感じたようです。

それに、イェインさんがパフォーマンスユニットのステージで本当に苦労したんですよ。ステージそのものが難しい構成で、選曲も他の曲に比べて異質なので心配でしたが、イェインさんがやりたいという意志を明確に示してくれました。そして本当にうまくやりこなしました。

 

Q.OH MY GIRLは「QUEENDOM」の最大の恩恵者という修飾語を得ました。ともすれば見え透いたステージになりうるLovelyzの「Destiny」を完璧に再解釈しながら、自分たちの可能性を改めて示しました。OH MY GIRLの再発見という感じがするくらいでした。

 

チョ・ウリ:メンバーが足を怪我した状況でもあのようなコンセプトを引き出したというのは、本当にすごいと思います。準備過程でユアさんが足を怪我しましたが、メインパフォーマンスのメンバーであるだけに心を痛めていたんです。会社側でも悩みが多かったです。それで怪我をした瞬間からパフォーマンスの方向性について悩み始めたのですが、ユアさんにスタートとエンド、ブリッジなどでソロカットを与えればブランクがなくなるだろうと思いました。振り付けの先生とも「サブステージに力を与えるためには花や樹木がなければならない」等お話しました。

ユアさんも意見を出しましたが、他のメンバーたちがとてもうまくやってくれたし、残りの振り付けもアーティストがみんな組んでくれました。自分たちでできる最大値をやり遂げると言いながら歯ぎしりをしたわけですが、当時「BUNGEE」の活動していたにもかかわらず、完成度の高いステージをやってくれました。仲間にも大きな刺激を与えられるステージだと思います。


Q.MAMAMOOはそれぞれの個性をよく見せてくれたようですね。単純に歌が上手いグループという従来のイメージからさらに一歩進んだという印象を、MAMAMOOのパフォーマンスを見ながらしっかり受けました。


チョ・ウリ:実は「Good Luck」は本当に難しい舞台なんです。コンサートスタイルのステージでしたが、4人がそれぞれ異なる方式で他人の曲を4つに再解釈した上、最後にはその4つがひとつの舞台に統合されました。

MAMAMOOはボーカルがパワフルな実力派とひとまとめにして考える方たちが多いですが、4人のメンバーたちがそれぞれ違う個性とボイスカラー、完全に異なるスタイルでありながらも調和をなしているじゃないですか。それがそのままMAMAMOOの色だと思います。それを一番よく見せてくれたのが「Good Luck」の舞台だと思います。それぞれ違う色を一つに混ぜたのですが、異質感が感じられないように完璧に仕上ったと思います。

 

Q.AOAも大きな収穫を得ました。5人組への再編後に初めて大衆に自分たちの力量を公開しましたが、過去に7人組での活動が思い出されないほど完璧なAOAを見せてくれました。特に「Egoistic」はガールズグループの限界を越えたという点で大きな意味があるんです。

 

チョ・ウリ:「Egoistic」の反響があまりにも大きかったですが、私はあの舞台がAOAに自分たちにしかできないことを証明してくれたのだと思います。AOAは大きな期待を負って出たチームではなかったかもしれましたが、だからこそそういう舞台を作り上げることができたのです。本人がやりたいことをやったというところから生まれる満足感と、よくやったという感情が舞台で見えたので、大衆の方が喜んだようです。私はそうは思っていませんが、AOAがもしもイメージだけで消費されていた従来のガールズグループの一つだったとすれば、「Egoistic」を通じて、そのような通念を破ったと思います。ジミンさんの役割が大きく、舞台上でのソルヒョンさんの力量も目立ちました。「Egoistic」自体がAOAの曲になったという感じもしましたね。

舞台についてはジミンさんと話をしましたが、ドラァグクイーン・ダンサーやヴォーギング・ダンスなどを先に提案してくれて嬉しかったです。人々が異質だと感じる可能性もある要素にもかかわらず、うまくやり遂げたことが本当にすごいと思います。進入障壁の高い部分をステージで完璧に見せたのもすごいのですが、ビジュアルの強いダンサーの方々に埋もれず、アーティストの存在感がより引き立ったのもすごいです。すごいという言葉しか出ません。


Q.参加したチームすべてに再びスポットライトをあてたという点で、「Queendom」はすでにかなり大きな意味を持つ番組だと思います。演出者として特に「Queendom」にはこのようなことはうまくやりこなしたと自評する部分がありますか?


チョ・ウリ:「女子アイドル」という偏見を破ったところです。実は、女子アイドルは人々が思っているイメージだけで消費される部分があるのですが、「女子アイドルがこんなに格好いいんだ」と知らせる事ができて本当に良かったです。男性アイドルの舞台は素敵だと言われる反面、女性アイドルの場合、素敵だという感想よりは、きれい・清純・可愛さを中心に消費されてきました。しかし、その方向を変えてパフォーマンスが上手い姿とこの舞台を作るための熱情と慎重な態度、このようなステージが出るまでのストーリー、作る過程などを照らし合わせたという点で意味があると思います。舞台を叙述するストーリーも多くの役目を果たしましたが、リアリティ部分もよく生きていて良かったです。


Q.各グループの特性が違うだけに、彼女たちの強みをそれぞれ違うものに活かすのに悩みが大きかったようです。先にこういう部分はしっかり取っていくと思った点がありますか。


チョ・ウリ:ひとつの競演内で6チームの舞台が重ならないように、コンセプトとトーン&マナーを最大限多様に表現しようとしました。そして、視聴者の中にはグループを見分ける事が苦手な一般大衆もいるので、彼らに対してもっと親切に近づこうとするならステージのイメージが異ならなければならないと思いました。各グループの色を最大限際立たせるように緻密に努力しました。曲を聞いているうちにコンセプトが浮かぶので、これらをうまく溶かしつつも、色彩自体もグループごとに違うように配置しました。


Q.視聴者の立場からすると、舞台ごとに各グループの個性を引き立たせようとした点がよく感じられました。舞台演出についても悩んだ跡がうかがえました。競演番組であるだけに舞台を最優先に据えたというのはあると思いますが、番組の企画段階で考えていた最初の方向性が気になります。


チョ・ウリ:ありがたいことに、全体演出を引き受けてくれたチョ・ウクヒョンPDが私ステージ・ショービジュアルの全権をくれました。それで、他の部分よりは「Queendom」が女性アーティストにとってカッコよくなれる機会になればいいなという思いだけで臨みました。アーティストの方々がやりたいことと、かっこいいことができるように最善を尽くさないといけないという気持ちだけでした。みんな才能が優れていて上手な方たちなので、このような方々と一緒に出来て光栄でした。


Q.良い意図だったし、その意図を十分に生かしたプログラムだと思います。ただ、残念ながら番組開始の前後にMnetの競演番組の公正さに対する懐疑的な視線が多く、ファイナル競演にも否定的な意見が出たりしました。


チョ・ウリ:メインプロデューサーがこの部分に専ら多く悩みました。しかし、これは私たちが耐えなければならない部分です。私たちはもっと熱心に重い責任感を持ってプログラムを作らなければならないし、また、それが本当に正しいと思います。


Q. しかし、それでも「Queendom」は大きな意味を持っていると思います。有終の美を飾った今、今季について感じた部分と来季についてのプランを聞きたいです。


チョ・ウリ:来シーズンについては皆意見がまちまちです。まだ決まったこともないとわかっています。しかし、私は「Queendom」が新しい章を作るのは本当に良い事だと思います。実力があってやりたい事も確かにあるのに、徹底した市場論理によってそれを見せられない場合が本当に多いんですよ。そのようなことを見せる場を設けるという趣旨は、来シーズンになっても変わらないでほしいです。それを解決していく方式は、より良い方向に十分変わることができると思います。この番組のストーリーは「本物」なんです。そういうことをよくお見せしながら、アーティストの方が見せたい舞台を存分にお見せできるようにするのが「Queendom」がやった部分で、これからもやってほしいことです。


キム・イェスル記者


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「Queendom」の好評を受けてもうすぐ(2020年4月末)に男子版「Road To Kingdom」が始まるというのもあり、今更ですが訳してみました。

(訳したいと思ってはいたのですが、ちょっと長かったのもありそのままになっていた...)


「Queendom」は本当に素敵なステージが多くて話題にもなっていたし私も毎回わくわくして見ましたが、同時にこのプログラム自体が実際の出演グループの活動には結果的にあまり影響していない(今のところ)という現実も実感しています。Mnetのサバイバル操作問題とかぶった時期的な事もあったんでしょうけど、他の話題になったサバイバルほどは楽曲もチャート上位に入らず...

(視聴者側としてはLIONなんで音源1位にならんんのくらいの気持ちはあったけど実際はウィークリー19位程度という...)

MAMAMOOや(G)I−DLEは一回限りのステージゆえに大胆な試みをした部分はあるけど、元々の芸風からそんなに大きく変わってないですし。

 

インタビュー中に「女子は市場原理のせいで定型のイメージしか出せない」というのがありましたが、普段の活動の部分で見られない姿は見られて嬉しい反面、どうも全体的に「女子アイドル」の置かれている現況についての認識に微妙なズレがあるのではないかと思った部分はあります。よく「女性アイドルへの実力面での偏見」とか「男性に比べて定型のイメージしか出せない」という言葉が出てきますが、こういう言葉が出てくる根本的原因がどこにあるのか?と考えると、結局は韓国の女性アイドルと男性アイドルファンドムのスタンスやファンドムのお金のかけ方の違いが大きいのではないか?と思います。男性アイドルが女性アイドルよりも表現の幅が広いと言われがちなのは、基本的に今の男性アイドルがターゲットにしているのは「ファンドム」で、一旦ファンになった層は極端に言えば好きになったアイドルがどういうパフォーマンスをしても概ね受け入れる(気持ち的には色々だとしても金銭的な意味で)だろうし、だからこそそういう「固いファンドム」を大きく作るための努力を多方面でするわけで...逆に言えば女性アイドルでも男性アイドルみたいに「固いファンドム」がついているグループは定型のイメージではなくても「人気がある」んですけど、更に女子アイドルの「人気」のバロメーターが今でも韓国では曖昧で、「ファンドムが多い」人気なのか「一般層に知られている」の人気なのかがひとまとめで「人気」とか「認知度」みたいな曖昧なバロメーターで語られてる感じはあります。

 

「Queendom」に出たアイドル達は一部を除いていわゆる中堅どころー大人気グループではないが音楽番組1位の経験はあり、ある程度の固定人気や一般認知度はあるけどトップクラスと呼ばれるほどのチャート成績や認識はされていない(あるいはそれが過去のものになった)ーという人たちだと思うのですが、その原因を「定型のイメージだから」とか「実力を見せられていない・認知されてないから」という事に求めているとしたら、それ自体がちょっと違うんじゃないかと思います。現実的には「実力」があるからそれがそのまま人気の第1条件として売れているわけではないし、韓国でアイドルが売れるにはある程度以上の技能的な実力は不可欠だけどそれ以外のものの方が絶対的に必要で、そのプラスアルファ以外の実力面での差が必ずしも大きくあるというわけではないからこそ「アイドル」という形式は難しくも面白いし、何故「アイドル」をやるのかという究極の問いかけのコアの部分がそこにあるんじゃないんでしょうか。歌と踊りで魅せるというのは「アイドル」のコアであって外せない部分だけど、それをとりまく表現方法に関しては逆にそれこそQueendomにでなくてもいいようなトップクラス人気と言えるような女子グループは「いかに定型ではないか(一見定型に見えたとしても)」というのをつきつめられたグループしかいないように思います。究極大衆を切り捨ててもファンダムウケに振るか、逆にファンドム構築は切り捨てても大衆ウケを取るくらいのある意味では極端とも言える選択をして、曲なりコンセプトに力を注いでいるグループが多いと思うので。過去を見ても2NE1やBEGみたいな清純でもないし単純なガールクラッシュでもなくセクシーなだけでもない、複雑なコンセプトとパフォーマンスのグループが人気があった事もあったわけですし。

それができる資金的だったり精神的な余裕があるかどうかというのもあるでしょうけど、全体的にグループそのものの個性というよりは「何ができるか」とかなにかがブレイクするとあからさまに似たような曲やコンセプトが平気で出てしまうという事も含めての「世間」の評価・ウケを、良くも悪くも対ファンドム以上に気にしすぎてる部分は大きいような気がしています。(いわゆる「アンチ」へのスタンスなどもそうだけど)男子グループの場合は先にある程度ファンドムが固まってから世間的に知られるパターンが多いですけど、女子の場合はなぜか「人気」にそのまま「大衆の評価(音源成績等)」が付随するから、それがもしんどさの大きな一因という感じもするし。これだけ韓国でもアイドルの数やアイドルオタクが増えて大衆とドルオタ界隈の距離も離れてきている現在、ビジネス的にももうそういう時代じゃなくなりつつあると思うんですけどね。


そもそももうプロとしてデビューして活動してるアイドル達が、本業あるところの自分たちの曲の活動やライブ以外で、「やりたいことをやる」「実力をお見せする」という名目でまさに彼女たちの本業であるパフォーマンスのための場所が提供されて、「これだけ彼女達が自主的き関わったステージですよ」というのをわざわざ見せて、それに付随したカムバック自体が「サバイバル」としてウケて消費される状況ってなんなんだ...とは思います。本来は番組の外でやってきた活動でのパフォーマンスがグループでの「やりたいこと」であるべきだし(商業面でのすり合わせは必要としても)そのチャーティングそのものが「サバイバル」なはずで、それはすでに現実に確かにある。それなのに、年末の歌謡祭とかお祭り的な意味ではなく競争のあるサバイバルとして、しかもカムバックも含めてあえて別の場を「娯楽」として提供する意味ってなんなんだ?という...ファンの側としては今まで見られなかった面が色々見れたし、韓国はサバイバル好きだから〜ですませてもいいのかもしれないけど、オタクが普段応援してきた(してる)「活動」ってなんなの...?みたいなもやもやは正直産まれました。

ステージ自体はどれも本当に良かったのでステージとかパフォーマンス自体は楽しみなんですが、どういう意図とスタンスでこういう番組をTV局主導でやるのか...みたいな事と、今この現在地において韓国におけるアイドルってなになの?という事に関して、個人的にはなんとなくスッキリしない小骨感のあるプログラムです。

【ize訳】コロナ19でK-POPシーンは極寒期!

コロナ19でK-POPシーンは極寒期!

BTSを皮切りに各種公演がキャンセル!

2020.03.20

https://m.ize.co.kr/view.html?no=2020032009157271702

NCT127はコロナ19事態により特別ライブ放送やリスニングパーティーなど、別名"ランサン(LANケーブル=ヴァーチャル)ライブ"として新曲を宣伝している。

 

「4月は残酷な月」だと言うが、今年だけはその定義が変わらなければならないようだ。新種のコロナウイルス感染症の影響で、2020年3月は歌謡界、特にKPOPシーンに歴代級の残酷な月記録を連日更新している。


2月28日に伝えられた防弾少年団(BTS)の「BTSBTS MAP OF THE SOUL - SEOUL」公演のキャンセルは、極寒期のピークを迎えた。ニューアルバム「MAP OF THE SOUL:7」の発売に合わせて開催されるワールドツアーの一環として、4月にソウル蚕室総合運動場メインスタジアムで行われる予定だったこの公演は、世界各国から集まる約20万人の観客を待っていた。アメリカ、カナダ、イギリス、ドイツ、スペイン、日本など、世界中で行われる予定の今後のツアー日程も、ウイルスの拡散により何も確言できなくなった。


厳しい状況に置かれているのは防弾少年団だけではない。最近、海外を除いて基本的な活動計画すら立てられなくなったKPOPシーンは、業界内外から殺到しているキャンセルや延期ニュースに頭を悩ませている。SMエンターテインメントの場合、1ヵ月足らずの間にテミンやSUPER JUNIOR、Red Velvet、NCT DREAMなどの国内や日本公演を延期・キャンセルした。今後の日程は全て未定だ。JYPエンターテインメントも同様にTWICEやGOT7、Stray Kidsのワールドツアーの日程を延期し、キャンセルした。TWICEの公演はフィナーレにあたる公演だったが、GOT7とStray Kidsの場合はツアー真っ最中で被害が大きかった。GOT7はバンコクシンガポールマカオ台北公演の延期とともに、クアラルンプール公演は完全にキャンセルする方向dw、Stray Kidsは5月の予定だった欧州ツアーを全面キャンセルする方針を固めた。このほか、YGエンターテインメントはWINNERのシンガポール公演をキャンセルし、WMエンターテインメントは5月に予定していたONFのラテンツアーを無期限延期した。


歴史上類を見ないことが繰り返されている中、KPOPを取り巻く風景も様変わりしている。これに先立つ公演が取り消された直近の正規2集でカムバックするWINNERなど、アルバム発売のショーケースや音楽番組の収録方式も格段に変わった。一般的に記者とファンを観客として開く公演型ショーケースは、2月からほとんどがオンラインリアルタイム中継形式に転換された。音楽番組も同様に、該当歌手のファンたちとステージを一緒に録画していた事前録画システムから観客を失った。ファンの歓声と応援法のない「カメラリハーサル」のような収録が2ヵ月近く続いているわけだ。


ファンとの直接的なコミュニケーションを主な目的とするファンサイン会は、被害が最大のイベントだ。相当な金額のアルバム販売収益の損失が予想されるにもかかわらず、大多数の企画会社がすでに予定をキャンセルしたり、最初から日程を決めていない中で、想像を超えるアイデアも登場した。TOP MEDIAの新人アイドルグループMCNDは「Meet & Call」という名のイベントを通じて、ファンと直接会う代わりにカカオビデオ通話(フェイストーク)を通じてメンバーひとりひとりとファンが個別にビデオ通話をするファンサイン会を企画した。画期的なアイデアの結果だったのか、彼らはデビュー3週間でM COUNTDOWN1位候補に名を連ね、また別の話題を呼んだ。


コロナ19ウイルスの世界的な拡散とともに、このような変化はしばらく続く見通しだ。誰も予想できなかった昨今の現実がKPOPシーンに伝えた最も大きな教訓は、この産業が人と人の間、国と国の間に限りなく近く存在しているという点だ。韓国大衆音楽の輸出額の大半をKPOPが占め、企画会社の総収益の半分以上をツアーが負っているケースも少なくないため、目先の利益や収益についての議論が先走ることは理解できないわけではない。ただ、災難に近い世界的な危機状況をすなわちKPOPの危機のような単純な図式で解決するのは、多方面において怠惰で非生産的だ。さらにKPOPは、いかなる危機的状況の中でもいち早く次を準備する驚くべき弾力性と柔軟性を誇る分野ではなかったか。「世界が韓国のポピュラー音楽に注目する」とか、「音楽で国境をなくす」という空虚な叫びが収まった今、KPOPと人、ひいては世界と呼吸するKPOPに対するより落ち着いて真摯な考察が行われるべき時だろう。


キム・ユンハ(大衆音楽評論家)

【ize訳】ITZY・BLACKPINK・CLC、アイドル達の歌の中の女性像

【ize訳】ITZY・BLACKPINK・CLC、アイドル達の歌の中の女性像


2019.02.25

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019022506117252196


今やK-POPにおいて「ガールクラッシュ」は一つの流行というより、最も人気のあるジャンルと言っても過言ではない。昨年から清純さやセクシーさを強調してきたガールズグループの代わりに、堂々としてパワフルなイメージを掲げるグループが相次いで登場し始めた。今年はJYPエンターテインメントの新人ガールズグループIZTYが自らを「違う」と強調し、堂々として強い女性キャラクターを前面に出してデビューし、話題を呼んでいる。では、彼女らが叫ぶ「違う」、または「強い」という意味は何なのだろうか。近年、ガールクラッシュ的な面貌を強調して活動中のガールズグループの歌詞を通じ、彼女たちが表現する女性像について調べてみた。


ITZY、右往左往する10代

JYPエンターテインメントの新しいガールズグループ「ITZY」は、デビュー曲「DALLA DALLA」で、「きれいなだけで魅力がない子たちと私は違う」と話す。「外見だけを見て私をチャラいと思う」という評価は拒否する代わりに、自らを「I'm bad」と定義し、「分別のある考え」でなく、「自分勝手に生きること」だから「止めるな」と反抗を宣言する。同じ事務所のガールズグループmissAがデビュー曲「Bad girl good girl」で「私みたいな女は初めて」と言ったのを連想させたりするが、当時のmissAは「私をよく知りもしないのに、私の外見だけを見て情けない女だと見るあなたの視線」と他人、特男性の視線に対して話していた。反面、ITZYは他人と違う自分自身を強調するという点で、もっと自信満々に見える。ただし、彼女たちは「きれいばかりで魅力がない」人たちとどう違うのか、あるいはどのように「勝手に生きる」のかについては説明しない。また後半では、「頭を上げて君の夢を追いかけて」と少し教育的にさえ見えるメッセージを投げかけたりもする。しかし、何が違うのか自らも説明できず、人と違うと叫ぶ頑なエネルギーは10代の特徴でもある。また、ステージの上でメンバーのイェジが手を後ろに組んで前に出るダイナミックな動作や、「bad bad I'm sorry I'm bad」でユナとチェリョンのソロダンスに続きひざまづいて手を前に伸ばす振り付けは、歌詞が表現できなかった部分を舞台上のエネルギーで満たしたりする。今の10代の少女の視線を止めさせるエネルギーを見せようとしたのなら、その意図は明確に伝えられたと言っても良いだろう。


BLACKPINK、「悪い女」の恋

BLACKPINKの「BOOMBAYAH」でリサは「middle finger up F U pay me」という表現を使う。こうした卑俗語を自然に表現しているガールズグループは珍しく、それを攻撃的な態度というよりも自信に満ちた「イケてる女子」のキャラクターとして見せるのはBLACKPINKの特徴だ。「BOOMBAYAH」では、「すべての男たちは鼻血でパンパン」と言い、「望む時は露骨に奪うことができる」という自信を表している。ここにデビュー当初から彼女たちをファッショニスタにした派手な衣装、果敢なパフォーマンスなどが加わり、彼女達は圧倒的なイメージのガールズグループになった。しかし同時に「きれい」という言葉を欠かさず、「か細い体つきに隠されたvolume」のように、社会で理想的とされる美的基準を強調する。他人の注目を楽しんでこれを誇示する自信満々さを持ち「踊る明かり」の下で「終りを知らないうちに速く走った」りしたが,「今日はあなたと私若さをgamble」と言い、いまの楽しさを語りながらも愛に対する切実さを持っている。「Whistle」でも「すべての男が私を毎日check out」と言う自信は「このまま通り過ぎないで」という哀願につながり、「PLAYING WITH FIRE」では「私の全てをあなたという世界に投げたい」と語り、「AS IF IT'S YOUR LAST」でも「最後のように、明日がないように」相手に愛されることを願う。「BOOMBAYAH」でBLACKPINKは「middle finger up」と言ったりもするが、同時に「オッパ」と叫んだりもする。華やかで強気だが、心の中には男性からの関心と愛を望み、新派的(メロドラマ的)に見えるほど弱い部分があることを表すのだ。「ガールクラッシュ」を掲げながら異性愛者の男性ファンにもアピールできる戦略だが、同時にこれがまたBLACKPINKの限界とも言えるだろう。


CLC、主導権を握りたい女性

SBS MTV「THE SHOW」において新曲「No」で初の1位に上がる以前まで、CLCは一貫性が不足して見えるほど多様なコンセプトを経てきた。「PePe」や「NoOhOh」「High Heels」では溌剌とした可愛い女性像を表現し、「Where Are You?」では「Crystal Clear」の略語であるグループ名のように、清く清純に見えるコンセプトを試みた。一方、暗くて濃いメイクと強い振り付けを強調した「Hobgoblin」では、愛する相手に「今すぐ私を連れて行って」という切迫した心情を「金よ出て来い/銀よ出て来い」という独特な言葉で表現した。しかし、「もっと確実に私を見せる」ために「香水」や「Black dress」を自ら選んだことを強調した「Black dress」を経て、今やCLCは「私が私でいられる」ために「Red lip」と「Earrings」「High heels」や「Handbag」に象徴されるれる「見え透いた」ものに「No」を叫ぶ。「Hobgoblin」と「Blackdress」が「ガールクラッシュ」コンセプトのように強いイメージを見せながらも相手に選ばれたい欲望を表現していたとすれば、「No」では「私はあなたのためには変わらない」と宣言し、選択の主導権が相手ではなく自分にあることを語る。ただし、「No」で羅列されたアクセサリーに対する拒否は、結局「私に一番似合うLipstick」を探すためのものだったという結論に繋がり、「勝手に壊してみて」「私が一番自分であるように」という歌詞とは異なり、「狂った私」の前には「きれいだ」という修飾語が欠かせない。自ら選択し、自我を守ろうとする女性像の登場は意味がある。ただ、他者の視線が完全に除去されることができなかったという点は残念で、宣言的な歌詞の内容がどのようにパフォーマンスを通じて具体化されるかについての悩みはさらに必要と思われる。


(G)I-DLE、言うべきことは言う女性

(G)I−DLEのデビュー曲「LATATA」は、「長い」夜を「君と」過ごすという誘惑の繰り返しから始まる。これはソヨンのラップパートから「もっと深いところに入って私を含んで酔ってもいい」という求愛と、「Muah Muah Muah」というスキンシップの表現にまで進む。しかし、彼女たちは「私にあなたを閉じ込められるように」するために、つまり自分が望むやり方で関係を主導するために、「あなたのための」歌とダンスをすると語る。ガールズグループとしては異例的にセクシュアルな文脈をストレートな話し方で表現するが、相手ではなく自分が望むやり方で愛を語る。別れの前にしても言い返さない。少女たちは「HANN(Alone)」で「まるで何か薬を飲んだみたいに変わった」という直感的な表現で恋人の心変わりを描き、「あなたは世界で一番の悪」という冷めた恨みまで叫ぶ。そして簡潔かつ明確に宣言する。「あなたを忘れる」と。「あなた」について語りつづけるが、歌詞には登場しない「私」の視線が歌の中心である。(G)I−DLEたちは、女性の力を強調するために何かをぶち壊すような躍動的な姿を舞台の上で演出したり、「悪い女」を標榜したりはしない。ただ、恋や別れといった普遍的な感情を徹底して彼女たちの視線と言葉で語り、「言うべきことは言う」女性像を見せてくれる。アイデンティティの宣言よりも、関係の中で自ら語る方法を磨いていく。よく理解される「ガールクラッシュ」コンセプトとは多少異なるが、まさにその差が(G)I−DLE達のユニークさになりうる。


文キム・リウン

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1年前の記事ですが、あげ損ねてたので今更ですがあげます。


この記事の後でた曲を見てみると、ITZYの「ICY」は一見冷たく見えるけど中身は熱い的な歌詞で、CLCの「Me美」はやはり美しさについての曲でしたが、「Devil」はまたちょっと違う感じの怖さがある曲でした。ITZYに関しては日本で言うとSPEEDみたいなものを感じるので、それはやはりティーンならではの健全かつ溌剌としたエネルギーを表現しているという事なのかな。そうなるとやはりそのエネルギーを曇りなくまっすぐに受け止められるのは同じ10代なのかもしれないですね。ファンと一緒に成熟していく感じという。

(G)I−DLEは「Uh-Oh」や「LION」などやはり独特の主体性のある楽曲をリリースし、特にQueendomでの「LION」のパフォーマンスは圧巻でした。正直KPOP界でHIPHOPブームがちょっと去って(若手hiphopアーティストがジャンルとして確立してきてアイドル化してきたのにも伴い)特に女性グループではYGくらいしかちゃんと音楽的にもアティチュード的にも表現に積極的に取り入れているグループがほぼなくなってしまったので、ソヨンの今後にはNADAくらいの期待をしていたりして。

BLACKPINKはここで指摘されていた「愛」を歌いつつも過去の曲よりかなり強い歌詞イメージの「Kill This Love」でカムバし、一気にプリンセスイメージからクイーンへと成長した感じでしょうか。本当はこの前の2018にDDU−DU DDU−DUという大きいステップがありましたが、なぜかこの記事では触れられておらず。DDU〜は明確にBLACKPINKの歌う女性像に変化があった曲なので、この記事の論に添いにくいから除外されたのかもしれませんけど。

 

私は特にいわゆる「女性グループをメインに推してる女子オタ」ではない女子のKPOPオタなのですが、そのような層もファンになったりしやすいのがいわゆる「ガールクラッシュ」の事ではないかと思っていて(女子ドルをメインで好きな女子オタの嗜好はまた違う特有の感じもあるように思うので)、その流れで行くと今思い返して自分が最初にガールクラッシュだと思ったのはYGの2NE1で、その出現を受けて当時SMなりの定型の女性らしさとはまた違う形を追求したのがf(x)だったのだろうと思います。ソロだとヒョナとかもいましたが。

そこから今のガールクラッシュブームが来るまでにはまた少し間が空いて、2014の江南駅殺人事件に始まるいわゆるミソジニー的事件によって若年層を中心にフェミニズムの流れが来たことも大きなきっかけではあると思いますが、具体的にはMAMAMOOの登場と女性版Show Me The MoneyだったUnpretty Rapstarのヒットが実際の韓国のエンタメ業界に与えた影響としては大きかったんじゃないかと思います。特にMAMAMOOは歌詞やコンセプトで直接的に「ガールクラッシュ」というものを表現していたわけではなかったけど、グループの素のスタンス的に自然とガールクラッシュ的なものとみなされ女性のガチオタに愛されていった経緯があると感じています。異性の目線が第一にあるわけではない自然な女子の姿というか、女子校の憧れ仲良しグループ(先輩たちいつも4人で楽しそう的な)みたいな雰囲気が女性のファンも多い理由のひとつにあるんじゃないかなと思います。キャンプなDecalcomanieのMVも作られた感じがしないのは、彼女たちのキャラクターそのものにハマってたからでしょうし。また、原始のガールクラッシュは「強い女」や「カッコいい女」だけではなくもっと広義の意味での「女性の主体性」を含んでいて、例えば女性アイドルからの人気も高いOH MY GIRLやRED VELVETなんかはどちらの類型にもそのまま当てはまるわけではないけど、日記やお気に入りのぬいぐるみや人形と対話するみたいな「女性の内面にあるマイワールド」に焦点を当てているという点で、これもまたガールクラッシュであると言えたと思います。

 

しかしこれが一旦「コンセプトとしてのガールクラッシュ」という事になると、どうしても「強い女」「かっこいい女」「自分で選ぶ女」というような典型に偏りがちで、本来のガールクラッシュの上澄みをすくっているにすぎなくなる危険もはらんできているようにも感じています。例えば過去CLが書いた歌詞が「強い女のイメージらしくない」と批判を受けたりした事があったというのも典型で、その人が表現したいことを表現するか否かではなく、結局大衆の好むような特定の形にはまらない女性像を批判するという意味では、「女らしくない」女性像を批判する事とあまり変わらなくなってしまうのではないかという気がします。ステレオタイプを壊すために生まれたものが定型化してしまうと結局それがまた新しいステレオタイプになってしまうという。

そういう意味では、2NE1の後にデビューしたBLACKPINKが半分は「女性らしさ」「ステレオタイプ的な美しさ」を否定しないコンセプトになったのはそのような傾向へのカウンターとも取れますし、表向きとっつきやすい明るさを表現するREDとその裏の複雑な心理を秘めたVELVETを自在に使い分け、堂々と共依存のような関係をも歌うRED VELVETや、「典型の女性像代表」のように言われてきたTWICEが新しい姿に脱皮した時に歌ったのがまた別の典型の女性像ではなく女性同士の連帯だったというあたり、トレンドを追うのではなく作り出す先頭グループのアティチュードのように感じられるのでした。

【ニューストマト】『ユンヒへ』イム・デヒョン監督、東アジア女性とフェミニズムについて

『ユンヒへ』イム・デヒョン監督、東アジア女性とフェミニズムについて

http://www.newstomato.com/ReadNews.aspx?no=931296

2019-11-05 16:49 キム・ヒギョン

 


イム・デヒョン「女性の物語作品を作ることについてとても悩んだ」

キム・ヒエ「女性が中心であっても面白い映画だと証明されることを」


「韓国と日本の女性は確かに違います。しかし、男性中心的な社会秩序が強固に成立した国で生きてきたという点では似ていると思いました。「ユンヒへ」は東アジアの女性たちが互いに連帯し、愛を分かち合う姿を見せたかった」(イム・デヒョン監督)


イム・デヒョン監督が寒い季節を迎えるにあたり、「暖かいマフラー」のような映画を準備した。単に一人の女性のロードムービーとも見られるが、広く解釈すれば東アジア社会に生きる女性たちの物語を描いた宝石のような映画が訪れる予定だ。


5日午後、ソウル広津区ロッテシネマ建大入口店では映画「ユンヒへ」(イム・デヒョン監督)マスコミ試写会と記者懇談会が開催された。同日の席にはイム・デヒョン監督をはじめ、俳優のキム・ヒエ、キム・ソヘ、ソン・ユビンが出席した。


「ユンヒへ」は感性ロマンス映画で、偶然一通の手紙をもらったユンヒ(キム・ヒエ)が忘れていた初恋ジュン(中村優子)の記憶を求めて日本の小樽に向かう話を描いた。2019年釜山国際映画祭クロージング作にも選定され、封切り前から多くの話題を得た作品だ。


イム・デヒョン監督は「男性として、該当作品をできるだけ女性の目線で眺めるために努力した」と口を切った。「台本を書くにあたり一番悩んだのは、男性として女性のストーリーを解いていくのが果して穏当なことなのかという事だ」打ち明けた。しかしそれでも「ユンヒへ」に挑戦した理由は、それだけの価値があるからだと打ち明けた。


「もし(女性を)僕と違う存在、あるいは遠くにある存在だと思っていたらこのような作品は出なかったはずです。しかし、私たちの周りにはすぐそばに母と妹がいます。代理経験ができる存在がありました。彼女たちの目で見るために自らを疑い、質問もたくさんしたと思います」(イム・デヒョン監督)


今回の映画では韓国女性のユンヒと日本女性のジュンとの初恋を描いた。似ていながらも確実に異なる2人の違う国籍の女性。イム・デヒョン監督は韓国と日本の共通点として「長い間男性中心的な社会秩序が成立している国」と説明した。


「韓国の書籍『82年生まれキム・ジヨン』が日本で大ベストセラーになり、日本の書籍『女ぎらい ニッポンのミソジニー』が韓国でベストセラーになる事が偶然とは思わないです。このようにフェミニズムの話題が時代精神として定着しているこの時点で、東アジアの女性たちが互いに連帯し、愛を分かち合う姿を映画でお見せしたかった」(イム・デヒョン監督)

 

キム・ヒエは今回の作品を演じながら、同性愛と異性愛の違いを念頭に置いては演じなかったと説明した。劇中のユンヒと娘のセボムの家族が二人でもお互いに完全な存在になるように、ユンヒとジュンも彼女たちだけの完璧な愛だからだ。

 

「私は、ある意味娘と一緒に旅行に行くシンプルなロードムービーとして見ても良いのではないかと思いました。一人の女性が忘れていた思い出を求めて旅立つ穏やかなドキュメンタリーとでも言えるでしょうか。題材のプレッシャーは気にしませんでした。中村さんとの呼吸はとてもよかったです。俳優さんの目を見た時に本当に真心が感じられ、私もその方に報いる演技を差し上げるために最善を尽くした記憶があります。お話は長くできませんでしたが、目で全部したみたいです」(キム・ヒエ)

 

キム・ヒエは最近、大韓民国の代表的な俳優として有意義な演技的変身を試みている。「Her Story」では慰安婦被害者たちに身を捧げるムン・チョンスク次長に変身し、「優雅な嘘」ではこの世を去った末娘の秘密を暴くため、過去を取り戻そうとする母ヒョンスクに挑戦した。その他にも「消えた夜」「セシボン」など多彩なカラーの映画に顔を出し、その存在感をアピールしている。これからも彼女は「女性キャラクターの多様性を構築できる作品が出ることを望む」と口を開いた。


「私はもうこの年齢なので、配役の大小よりは面白いシナリオである事が作品選定の基準になりました。私の年齢で主演になれる作品はほとんどないと思っても構いません。でも『ユンヒへ』を通じて私たちのような女性キャラクターが前面に出てもできるのだということをお見せしたいです。既存の映画界に存在する先入観を破ることができる力になればと思います」


イム・デヒョン監督の暖かな目線とキム・ヒエの情熱的な挑戦が合わさった「ユンヒへ」。果たして今秋の観客の心を温かく溶かせる映画になれるのか、帰趨が注目される。封切りは14日だ。

 

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キャストとストーリー、舞台の殆どが小樽ということで個人的に興味がある映画の関連記事を訳しました。

「女ぎらい」は上野千鶴子氏の2010年の著作で、韓国では「女性嫌悪を嫌悪する」のタイトルで翻訳出版されており、今でも韓国ではフェミニズムの入門書としてよく推薦されているようです。