サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【ize訳】安室奈美恵、いつも実直だったJ-POPの女王

【ize訳】安室奈美恵、いつも実直だったJ-POPの女王

 

2017.12.01
http://m.ize.co.kr/view.html?no=2017113023567227549


私が中学生の時に日本の文化が開放され、J-POPブームが少し吹いたことがある。 その時、安室奈美恵と初めて接した。 宇多田ヒカル浜崎あゆみと共にJ-POPの3大歌姫と呼ばれた彼女は、J-POPの世界に入るには一度は聞いておかなければならない歌手だった。 その前から名前は知っていた。 日本文化が開放される前から、日本の音楽界は現在安室奈美恵と多くの女性歌手が掌握していて、ストリートには彼女のように着飾った女性たちが並び経済現象にまでつながったというニュースが何回かあったからだ。時は2000年代初頭、安室奈美恵は母親の死亡と離婚などの事件を経験し、音楽スタイルをヒップホップに変え、影響力が落ちた状態だった。 それにもかかわらず「J-POPの女王」と呼ばれていた。彼女は我々にとって日本文化を代表する歌手だった。 販売量が低迷しても、その事実は変わらなかった。

 

そして2004年7月、安室奈美恵が再び立ち上がった。 バラードシングルである「ALL FOR YOU」が10万枚以上売れたのだ。 以前に制作した音楽と似ていたからたくさん売れたのだろうと言う人もいたが、ヒップホップスタイルを固守したアルバム「Queen of Hip-Pop」がオリコンチャート2位を占めると、その言葉はぐっと引っ込んだ。 事実、安室奈美恵の再起には大きな意味がある。 人気の最高の頂点を取ったことがある人であるだけに、世論と販売量を意識して以前のように大衆志向的な音楽に戻る可能性もあった。 しかし、安室奈美恵はそうしなかった。 自分がしたい道を歩き続け、ついに国民は彼女の後を知って従った。

 

日本の歌謡界で活躍した25年間、安室奈美恵はいつもそうだった。 自分に厳しかっただけに、他人にも厳しかった。 妥協する可能性もある瞬間でも妥協しなかった。 沖縄出身の安室奈美恵は1999年と2000年、2度にわたって公式的な国家行事で君が代斉唱を拒否した。 1999年にあった行事は天皇の即位10周年を記念する行事であり、2000年にあった行事はG8首脳会談だったが、彼女は歌うそぶりさえ見せなかった。 デビュー20周年の2012年にはデビュー日の9月16日に合わせて故郷の沖縄で記念ライブを行うことにした。 しかし台風が上陸し、9月16日にライブができなくなった。 日付を延ばす事もできたかも知れないが、安室奈美恵はデビュー日でなければ意味がないという考えでライブをキャンセルした。 以降の5年後の2017年9月16日、安室奈美恵は5年前のことを挽回するための沖縄公演を開催した。

 

もちろん、いつも堂々とした行動を見せてきたとしても、彼女に苦しみや不安などの否定的な感情がないわけではなかった。 1年の空白期を経た後、1998年12月の紅白歌合戦で初の復帰ステージを持った安室奈美恵は「CAN YOU CELEBRATE?」を熱唱し、絶えず涙を流した。 この時の視聴率は68.4%で、瞬間視聴率は80%に迫った。 歴代の歌手別視聴率1位だったが、彼女は舞台に上がる直前まで「人々に温かく迎えられなかったらどうしよう」と思ったという。 そして1年後、歌手になるまで全面的な支援を惜しまなかった母親が、再婚相手の弟に殺害された。 自ら「地獄まで追い詰められた」と表現するほど精神的に大きな苦痛を経験した彼女は芸能界引退まで考えたが、実行には移さなかった。 代わりに腕に母の命日と息子の名前をタトゥーとして刻み、再び立ち直って伝説を書き下ろした。 このような行動を目にしてきたので、安室奈美恵はいつも芸能界の上でJ-POPの女王として降臨しているような人だった。

 

だから、安室奈美恵の引退発表は意外で衝撃だった。 この9月20日、安室奈美恵は自分のデビューの日に合わせて2018年9月16日に芸能界を引退すると発表した。 過去になく、今後も現れないであろう常に実直だったJ-POPの女王が王座を離れる。 これから彼女の歌を聞くができないなんて残念に感じられる。 J-POPのファンである私にとっては、彼女の歌に多くの青春を借金しているためだ。 しかし、ブレることがなかった彼女だったので、それなりに適切なタイミングで決定したのだとと思う。 安室奈美恵が経てきた人生、そして今後経ていく人生に心からの拍手を送る。

 

文 ベクソルフィ(コラムニスト)