サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【質問箱】韓国のアイドルが日本では日本語でパフォーマンスする事について

【質問箱への投稿より】

こんばんは。この間韓国のアイドルが日本では日本語バージョンを歌わされる事について他文化を尊重してない・特に自分で書いた歌詞を歌う事に意味があるラップを日本語で歌わせるのかというような意見を見かけたのですが、それはそうやなと思った反面、「歌わされる」という表現が引っかかりました。日本は韓国みたいに韓国語の歌がTVで流す事を禁止されてるわけでもないし、日本語バージョンの曲を出さないで活動しているアイドルもいます。実際に最近でも韓国語の曲を地上波でパフォーマンスしたアイドルもいますよね。結局日本で日本語バージョンをリリースして日本語で歌う事を選んでるのは日本側の要求以前に韓国アイドル側の選択っていう部分もあるんじゃないのか?って思ってしまうんですけど、泡沫さんはどう思われますか?

2019/12/06 07:51:41

https://odaibako.net/detail/request/06a48203644f42b8b97137bf6061c298

 

btsが日本に来ると日本語でパフォーマンスすることについて、日本語以外の言語を尊重できていない、軽視している自覚がないといった意見が流れてきて驚きました。ラップを外国語に翻訳されてパフォーマンスすることについてみんな考えてわかってるのか?というようなことも書かれていました。私はarmyではないですが、kpopの日本語verは大好物で、軽視しているつもりは全くなかったので冷や水をかけられた気分でした。政治状況が厳しい中、ファンダムにおいてはお互いを尊重し合えてる(言語の問題も含めそれが商業的なものとはいえ)くらいに思いあがってましたので笑、少しショックでした。

泡末さんはどう思われますか?

2019/12/06 21:20:20

https://odaibako.net/detail/request/06a48203644f42b8b97137bf6061c298

 

f:id:djmusmusculus:20200701092318j:image

(ツイッターなどにリンクが貼られた時に下の画像がサムネとして出てくるのが気になっていたので、最初のご質問のスクショ画像を追加しました)


これ、同じ日に全く同じ質問が10時間くらい差で来てたので何があったんだ...?と思ってしまいました。最初の方はアイドルってボカしてましたけど、2人目の方はもろに名前を出していたのでBTS界隈の話なんだなってわかってしまいましたが笑 詳しいことはよくわからないながらも色々思うところがあったので、ブログの方に書かせて頂きます。

(注:これを書いて投稿の準備をしている途中で2番目のご質問くださった方がどういう内容のものだったのか追加で送ってくださったので、内容は把握しました。元々ツイートを拝見する前に書いた文章と言うことを明記しておきます)

f:id:djmusmusculus:20191207144441j:image


「Kドルのほとんどが日本では日本語で歌う」問題、個人的には1つ目の方もおっしゃってるように「歌わされてる」っていう認識が謎です。なんで本人たちの意思ではなく無理やり歌わされてると思うんですかね。「自分で書いた歌詞を歌う事に意味があるラップを日本語で歌わせるのか」というの、別に日本では韓国の地上波における日本語のように韓国語の曲を流す事がTVで禁止されていたり自粛してるわけではないですし、「韓国語でラップする事にこそ聴き手に伝わるものがある」と思うなら日本でパフォーマンスする時もそうしたいってそうすればいいだけじゃないですか?KPOPが定着し始めた2010前後の方がTVで韓国語でパフォーマンスするアーティストは多かったですし、実際に地上波の音楽番組で韓国語のバージョンをパフォーマンスしたグループも最近だけでもIZ*ONEやTWICEなど複数います。BEAST(現HIGHLIGHT)の「FICTION」の日本語バージョンが出た時はラップ部分は韓国語のままでした。YGのアイドルは韓国版の楽曲をほぼ全てそのまま日本語バージョンにしたアルバムを日本で出すのがポリシーなようですが、G-DRAGONのソロアルバムやiKONのBOBBYのソロ、WINNERのミノのソロ、Double BのANTHEM など主にヒップホップ系のラップメイン楽曲で韓国語のままのものもありますから、「これはやろう/これはやらない」という辺りをはっきり区別してるんだろうと思います。そしてここに名前を挙げたグループの曲は全てメンバーが楽曲制作に関わっています。そういう風に日本語バージョンにするかしないか、ラップの部分をどうするか自分たちで選んでやっている事がわかる韓国のアイドル達もいるわけで、やれるのにやらないということは自分たちで「日本ではラップパートも含めて日本語で歌うという事を選んでいる」と考える事の方が自然じゃないでしょうか?


確かにKPOPにはまりたてで色々学んでる最中の人なら「他の国では韓国語のままパフォーマンスしているのに日本ではわざわざ日本語で歌っている→歌わされている=異文化を尊重していない!」という思考回路になってもおかしくないのかもとは思いますが、ストレートに直結するのはあまりにも短絡的すぎるし、逆に韓国のアイドルの事をバカにしてる考え方すぎないですか...あなたの好きなアイドルは自分の意思もなく、あるいは日本で日本語でパフォーマンスする事に具体的な目的意識もないまま、あるいは本意ではないけど言いなりにやるだけの人達だと思ってるんですか?って言いたいです。

 

大体、「BTSが日本でだけ日本語で歌ってる」っていうのも違いますしね。

防弾は過去に中華圏でも活動しようとしていた時期があって、「Boy In Luv」には中国語バージョンもあります。過去の台北や北京公演などでは「Boy In Luv」を中国語バージョンで披露していました。後に中国では活動できなくなった(現状韓国アーティストのコンサートは出来ない)から結局それっきりになってますけど、つまりは日本がどうこうじゃなくて韓国の事務所によるグループの現地化活動戦略の一環って事だと思いますけどね...日本だけが特殊ではないです。その時期を知らない人の発言なんでしょうけど...

(大事な部分を太字にした)


そもそもなんで日本で日本語バージョンを出すようになったかっていうと、これは元々はSMエンタの戦略だったと思います。

2000年代初頭にSMは何回か日本進出を試みていましたが、韓国での人気グループをそのまま輸出しても当時はなかなかうまく行かず、そんな中で考え出したのが文化技術(CT=Culture Technology)理論と名づけられた「現地化戦略」でした。このCT理論というのは3段階に分けられています。


第1段階:韓国の事務所が直接作って輸出する

第2段階:海外の現地企業との協力を通じて市場拡大を図る

第3段階:現地企業と合弁会社を立ち上げ、韓国のCT(文化技術)を伝授する


現在では第1段階のやり方をしているのはアイドル以外の一部韓国アーティスト(NELLとかHYUKOHとか赤頬とか)くらいだと思います。第2段階というのは日本の芸能事務所やレコード会社と契約して活動すること、第3段階はYGEXとかSMやYGがやっている(た)事ですね。この「現地化戦略」においてあえて韓国のアーティストという売り方をしなかったBoA東方神起が日本のアーティストとほぼ同等のブレイクをした結果、KPOPという言葉が使われるようになる前から「韓国のアーティスト」というものがポップスやアイドルの分野でも一般的に認知されて受け入れられるようなベースが出来たんだと思います。このような経緯と素地があってこそ、その後のKARAや少女時代などが起点になった「KPOPブーム」では基盤を韓国に置いたまま日本でも韓国のように現地に近い方法で活動するというやり方の一部である「日本語バージョン」が成り立つようになったわけで、音楽業界にも一般社会的にもベースがないままウェブ経由でインターネットミーム、あるいはファンダム&スタンカルチャーがメインで支えるボーイバンドとしてチャート成績から注目されたアメリカとはそもそもの立ち位置とか扱われ方が違いますし、どっちが尊重してるとかいう話ではないでしょう。そういう状況下では、過去の事例をみても「外国人」がむしろ下手に現地語である英語で歌うよりも「外国語」の方が受け入れられやすいという部分もあると思います。多分それは本人達もわかってるでしょうし。

(「KPOP」自体が別物としてラベリングされてしまった時点で現状ではまだアメリカのポップス文脈には入れておらず、「音楽」というよりはエンタメ界隈の独立したインターネットサブカルチャームーブメントの延長上の一部という認識に近いようなので、異文化を尊重とかいうのとも少し違う気が。でもだからこそアメリカでも独立したジャンルにもなれるわけで。むしろ元々アメリカのカルチャーだったHR/HMの分野に入り込んだBABYMETALの方が「異文化として(ジャンルの文脈内に)受け入れられた」という方に近い気がしますけどね)


そういうわけで、「KPOP(BTS)にわか」で現地の業界システムにはいりこんで活動をしていない(あるいはその入り口に立ったばかり)のアメリカと、その時期を超えてKPOPとはすでに10年以上ズブズブな日本での活動を比べる事自体がおかしいと思います。今現在、多くのKPOPアーティストにとって日本で活動することとその他の国での活動には多分決定的な違いがあって、その他の国では「韓国の文化であるKPOPを広める」というのが現状メインでしょうが、日本ではその先の「日本の他のアーティストと同じ土壌で対等に戦う、あわよくば客を奪う」くらいのところに来てるし実際そうなってると思います。だからこその一種の武器としての「日本語バージョン」なわけで、欧米のアーティストのようにたまに来て稼いで帰るだけの「外タレ」では終わらないという強い意志の元で、あえて自分たちの看板とも言える韓国での代表曲を日本語に翻訳してパフォーマンスしているんではないでしょうか?例えばSMはCT理論の進化系のNCT理論で日本だけではなく中国(SJ−M・EXO・NCT DREAM・WayV)とアメリカ(少女時代・BoA・NCT127)で現地語バージョンをリリースしており、日本以外の国でも本格的に活動させるつもりの国での現地化のやり方はブレていません。一方アーティスト本人が楽曲制作に参加する事が多いYGは、前述の日本語化の区分のほかにアーティスト本人の日本語能力そのものをブラッシュアップさせる事で日本語バージョンへの「負担感」や「真正性」を上げるという手法を取っており、ライブに行けばわかりますが日本語でも「自分の言葉で」喋れるメンバーが多く、「ビジネスの都合上よくわかってない外国語でわざわざ歌わせられている」という事態を避けようとしています。中国でも一時期そういう風にしようとしていた流れはありましたし(スン...)。そしてBTSはどちらに近いかといえば完全にSMの方のやり方であって、つまりは「自分の書いた言葉で伝える」事を重視する「アーティスト」の側面よりも「活動の場でより多くの人々にアプローチする」という「アイドルポップス」としての使命の方に重きを置いているということではないかと思います。


というかですね、「ラップを外国語に翻訳されてパフォーマンスすることについてみんな考えてわかってるのか?」って、それこそパフォーマンスしてる本人達か事務所にこそ言うべき事じゃないですか?自分が書いたラップを外国語に翻訳された歌詞でパフォーマンスする事をどう思ってやってるんですか?って。KPOPオタクのほとんどは日本語バージョンいらないって思ってる人が多いんだろうし、誰に対してのどういう意図での問いかけなんですかね?防弾は昔から日本語バージョンの歌詞チェックにはすごくこだわってチェックが厳しいらしいですし、過去のインタビューや本人の言葉を思い出すと、個人的には「日本では日本語の方がより多くの日本のリスナーに意味を理解しながら聴いてもらえる(そしてそれが出来る環境がある)から、信頼のおける訳・作詞家の人に頼んだ日本語で歌いたい」って言うんじゃないかと思いますけどね。というか言ってた。国内の音楽のクオリティが上がって成熟してくると、「外国語の音楽」って徐々に大衆にとって不要になってくるというか、ピークを過ぎればだんだんマニア化してくる流れはあると思うんです。実際、今の日本での「洋楽」は一部の超有名アーティスト以外はそうなりかけてるわけで、KPOPは洋楽にならないためにその言語の壁を越えようとしてるのではないか(そうしてるから長く太く定着して衰退しにくいのではないか)と思う部分もあります。

日韓関係が微妙になればTVに韓国のアーティストが出ることや逆に日本語で歌う事を非難するような人たちも出てくると思いますし、「日本語/韓国語」っていうものが逆に非難のタネになる事もありますけど(韓国でもそうですし)だからって「(今もう十分売れたし)もう日本語でやんなくていいよ」って言うのって、自分たちがその事で好きなアイドルが非難されたり責められる姿を見たくないというエゴ以上のものがありますか?KPOPオタクの間では既にある程度話題になってファンもいるけど、これから何としても更に日本市場に食いこもうという野心を持って来ている新人グループはたくさんいるし、そういう人たちにも「今のままで素晴らしいんだから、日本で日本語バージョン出して日本語活動することないよ」って言えるのか、そしてそれをすでに日本でその過程を得て何年も経っててファンもたくさんいるグループのファンが言ってるって考えると、傲慢すぎませんか...?


今やDAY6みたいに楽曲制作してるメンバーが自ら日本語&英語で歌詞を書いてるようなグループも出てきてるし、逆にTHE BOYZみたいにタイトル曲含めたほとんどの曲が韓国でリリースしてない新しい韓国語&英語の曲(ちょっと日本語が出てきたりする)の日本オリジナルアルバムをリリースしたりするグループも出てきているわけですから、レコード会社には関係なく本当にいろんなやり方があるし、やってる韓国のアイドルたちが実際にいるわけです。そういう中でBTSは日本ではベタに他人が訳した日本語バージョンでパフォーマンスするというやり方を自ら選んでいる、そういうグループということなわけで、その現実を受け入れるべきなんじゃないですかね?誰も彼らに強要してないですよ。過去の日本でのKPOPの歩みやいろんな試みを無視するかのような今現在の一点しか見てない発言はあまりにもKPOPに対する敬意も欠けているし、BTS自体もKPOPのグループなんですから結局BTSの事もバカにしてんのかって感じます。


「日本で日本語でパフォーマンスすること」に関しては、ガチで自分たちがメインで楽曲制作しているNELLやZion.Tといった韓国のアーティスト達も過去にインタビューで語っていますから、是非100回くらい読んで欲しいですね。



Zion.Tのビルボードのインタビューは今は読めなくなってたので、スクショと己のツイート貼っておきます。BTSも尊敬してるアーティストでもあるZion.Tのこの前向きかつ発展的な発言に比べて、異文化を軽視してる発言のしょうもなさ感じませんかねっつう話ですよ。海外のアーティストや異文化に対して勝手に決めつけて軽視してるのはどっちなんだ?っていう。

f:id:djmusmusculus:20191207023428j:image
https://twitter.com/djutakata/status/1025303751148462081?s=21

 

何よりですね、実際彼らの事務所、間接的にはメンバー達も大手事務所とか人気のグループが海外で活動する時は、自分たちのグループのことだけじゃなくてKPOPを聴く人口の裾野を広げるような事をしなくちゃダメで(ノブレス・オブリージュとして)実際BTSは日本でそれを広げてきたと言っていて、韓国語に限らず外国語の歌は聴かない・聴いた事がなかったような層まで引き込ませるための一種の入り口とか手段としての日本語バージョンだという自覚がはっきりあると思うんですよ。それに付随する接触商法も一緒にやれば一石二鳥ですし(そこで積んでくれるようなファンがいっぱいつくというのはグループにとって現実的にありがたいことでしょう)。以前はライセンス盤を出していたBTSが日本オリジナルアルバムのみのリリースなったのも、今はある程度KPOPを取り巻く環境が安定して日本のアーティストと同じスタンスのやり方で良くなったという事でもあるでしょう。(レコード会社が変わった事もあるかもですが)そういうアーティスト側の能動性がある選択に対して、日本側がさせているんだろうと言わんばかりの一方的な独断に基づいて「日本語以外の言語を尊重できていない、軽視している自覚がない日本側からそうさせられているんだろう」呼ばわりするなんて、本当に視野が狭く偏った考え方なんじゃないの...ってちょっと呆れてしまいました。それって無意識のうちに日本が甲で韓国が乙の立場だという思い込みもあるからじゃないかと思ってしまいます。両者がビジネス的に対等だと考えてたらなかなか出ない発想だと思いますよ。プンプン!!😠

 

なんだかだんだん怒りのようなものが湧いてきてしまいましたすみません。

もっと広義で他の国のアーティストが海外で受け入れられるにはという事を考えた時、最初は外国語のままで何かの拍子でウケて(2010頃の日本と今のアメリカがこの段階に当たると思います)、更にそのアーティストがある程度のファンドムを得た後、音楽スタイルはそのままに現地語で活動する事によってもっと広い大衆にアプローチしようと試みる環境が出来て(日本は今こういう段階だと思います。アメリカはここまで行くかどうかわからない)更にその向こうの第3段階として「元の言語のまま現地のアーティストと同じように受け入れられる」という事だと思いますが、現実問題第3段階まで行くことは今はまだかなり難しいですよね。アメリカの一部アーティスト達はこの第3段階に行っていますが、それも英語という植民地支配と共に世界的に広がってさまざまな国で植民地語化していった言語がベースにあるというのは大きいと思います。韓国語や日本語といったもっとローカル言語で歌うアーティストにとっては今すぐ世界を変えよう!的な理想にはつきあっていられない現実もあるわけで、それでももっと売れたい(沢山の人にきいてほしい)し自分たちだけの一発屋ジャンルにはなりたくないという欲望を優先した結果の「現地化戦略」なんだと思います。日本だとONE OK ROCKなんかはこれの真逆を欧米圏でやっていますし、日本での「アイドル」というジャンルの位置づけを「ロック」というものの歴史や文化的背景にスライドさせて考えると、アメリカでロックしたいワンオクがアメリカで英語で歌う事と、日本でアイドルしたいBTSが日本で日本語で歌う事に違いがあるでしょうか?韓国のアイドルでもSMの例を考えると、東方神起とSJ、EXOとNCTの日本での認知度にはトータルでの人気とは関係なく差があるという現実がありますし。

 

SEVENTEENみたいに韓国のタイトル曲の日本語版リリースもなく日本語バージョンの活動曲としてのリリースもなく(注:わかりにくい文章だったので修正しました)レコード会社とも契約せずに東京ドームまでいったグループ(この辺も実際グッズの売り上げが高いグループが優先されるらしいとかまた別の事情はあるようですが)のファンが言うならともかく、実際日本語による現地化もやりながら人気を拡大していったグループのファンが、自分が日本語バージョンを聴いてファンになったわけじゃないからって言う事じゃないのでは?と思いますけどね。自分の理想に当てはめるために実際の彼らの辿って来た道、そして活動の仕方や考え方(発言)などを無理やり歪めてる感じがします。

 

追記:

2年前に似たようなご質問にお答えしてます。

この時はご質問の内容的にざっくり言うと売れるから日本語版出すんじゃない?というお答えをしましたが、今回はもちろんこういう事情もあると言うことは大前提で、ビジネス的な事ではなくカルチャーの面からの話をしました。

「現地語で歌う事を受け入れないのは差別的ではないか」というのが今回の趣旨なので、「2倍売れるから出すんじゃん」では答えになってないと思ったからです。2年前とはBTS自体の状況もかなり変わっていますし、「売れるから」だけでは説明が足りない状況になっていますし。

もちろん日本語バージョン出したらそっちも売れるからっていうのもあると思いますけど、売り上げ的にはそのやり方を受け入れなくてもいいくらいの段階にきてそうなのにまだやってるって事は、ことこのグループに関してはそれだけではない段階に来ているという事だと思います。

 

追記その2 (2021年11月2日)

この記事ブログの中ではよく読まれてるみたいですが、その後Wezzyさんでもう少し詳しめでビジネス的な事に特化した記事を書いたのでご参考までに。

 

 

これ書いた後にズバリのBTSの英語曲「Dynamite」が出た事で、両方の記事に書いた「日本語に限らずその国でビジネス的な求めがあれば何語でも歌うのでは」という趣旨が割とそのまんまになってる感じでは。韓国語楽曲の英語バージョンリリースするグループも珍しくないですし(まさにBTSの後輩のTXTなどはそう)もう「日本だけの日本語バージョン/日本語曲」という前提そのものが、現実を反映していない古い捉え方であると言ってもよさそうです。

 

 

【ize訳】82年生まれキム・ジヨン | 日本で「82年生まれのキム・ジヨン」を読む

【ize訳】82年生まれキム・ジヨン | 日本で「82年生まれのキム・ジヨン」を読む

2019.02.12

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019021209047246657

 

「似ているけどちょっと違う」「共感の中の違和感みたいなもの」

 

日本語版「82年生まれのキム・ジヨン(以下「キム・ジヨン」)」の人気に触発された日本のあるラジオ座談会で、本の翻訳者である斎藤真理子氏が最近、日本での韓国文学に対する注目の背景について述べた言葉だ。「一緒に米と味噌がのせられる食卓」に例えられたりもする文化的類似性は、日本で韓国文学を眺める出発点を他の海外文学のそれとは少し異なるものにしている。近年晶文社亜紀書房などの出版社を中心に慎重に企画され、日本国内の韓国文学の小さな流れが作られてきた中で、今年12月に100万部の小説「キム・ジヨン」が到着し「フェミニズム」という巨大な流れに合流して、市場とメディアの注目を浴びている。さらにこれが今の韓国文学に対する、そして作品の内的・外的土台となる韓国社会とそのリアリティに対する注目につながり、比較文化的な議論を刺激している。

 

キム・ジヨン」に限定して言えば「類似」は小説で展開される女性が経験する不当な現実とその背景だ。家庭を中心に女性/男性の規範と役割を強要し内面化させる制度と文化が、両国ともに根強く存在している。これが「ジェンダー格差指数115位(韓国)と110位(日本)」に要約される現実、すなわち女性に差別的で不利な現実を構造的に働かせ、再生産させる。この問題が、ある女性の暮らしを貫き破壊する様を扱った「キム・ジヨン」であるだけに、第1章から順調に日本の女性読者を慣れた世界に導く力を持っている。一方、「差異点」はどこに着目するかによって変わるだろうが、「現代ビジネス」に掲載された西森路代氏の指摘が鋭い。第一に、「韓国女性は男性に劣らず社会において活躍できるよう、少なくとも家庭レベルでは期待されている」という点である。韓国がIMF以降、激化した生存競争の中で「自分の子ども」に対する教育熱が男女を問わない側面があるとしたら、日本では教育段階から女性に対する機会と期待が制限されている。これに関しては2017年末に本誌に掲載したコラムで言及したことがあり、昨年明らかになった東京医科大学が8年間女性受験者の成績を一律に減点させ、入学を制限してきたという事実から端的に表れている。2番目の相違点は、作品の外で指摘される。それは「行動で現実を変えられる」という感覚と、そのように「文脈化してきた」経験の歴史だ。ここでは「Me Too」以前の雑誌「MAXIM」Mnet「SMTM」などメディアの女性嫌悪的表現に対する抗議事例とともに、抗議する市民社会の遠景として1987年の民主化運動まで遡及している。

 

このような比較は翻訳文学を紹介するための背景召喚である一方、日本のメディア空間でどのような韓国像が構成されているのか、構成されつつあるのかが確認できる資料となる。上記の雑誌で西森氏の文章と並んで掲載されたキム・ヒャンチョン氏の文章では「2000年代初めに韓国のジェンダー関連イシューを見て『日本で生まれてよかった』と安堵したが、現在の日本では『キム・ジヨンのような小説が出て話題になる韓国がうらやましい』という話が聞こえてくる」というコメントが登場し、実際「このような本がベストセラーになる韓国がうらやましい」というAmazonジャパンのあるレビューは韓日両国で繰り返し引用されている。この他多様な記事で1987年の経験が登場することからは、「日本とは違い、市民の団体行動で何かを変えることのできる躍動的な国」という(少尉進歩的市民陣営の視点で)多少神秘化された韓国像がちらつく。こうした一種の羨望の視線に文学分野において両国間の影響関係の方向性が逆転した最初の事例という異例性が加わり、世界的な"MeToo"の流れでも多少停滞を見せた日本に「韓国を見よ」という注文を触発することになる。

 

この2年間国内の多様な社会的な議論を巻き起こし、生命力旺盛なテキストになったこの作品が似たような問題を共有する日本社会に投げかけられることで、共感と関心を呼び起こすのは非常に肯定的なことだ。しかし、存分に和気あいあいとはしづらい違和感もある。「新潮」3月号の書評で鈴木みのり氏はこの小説が日本に呼び起こした共感の波や羨望の視線に慎重な警戒を表明する。作品はあくまで現実を追認するのにとどまったと限界を指摘し、作品が開いた空間に「出生時に割り当てられる『男女のいずれかの性別』に違和感を持たず、身体や服装などにおいて性別履行を行わない状態」を指すシスジェンダーしか含まれていないという排他的な側面に言及した。もちろん性別二元論に基づく女性の「平均値」リアリティは「キム・ジヨン」が選択した部分であり、この区分線によって排除された存在に対する配慮がないということが作品の欠陥にはならないだろう。ただし、鈴木氏の書評を通じて強調したいのは、決して「共感」したり「同等」ではない自らの具体性から出発しようとする読解態度だ。彼女自身がトランスジェンダーの女性であり、自らがこの作品と韓国の現実においてあくまで外側の人間であり、「私たち」個々人は互いに異なる共有できない属性の複合で存在すると強調する鈴木氏の文章は、なじみ深い一つの属性に形成されやすくとどまりやすい共感の持つ危険性を警戒していると考えられる。韓国でも日本でも「女性」の境遇は似ており、女性差別問題において今現在どちらが先に進んでいるといった具合に語られるとき(優劣を分ける一律的な基準が想定されるとき)、具体性に基づいて作っていくはずの次の世界への想像はむしろ後退しかねない。

 

もちろん、既に形成された共感が強いて「自分たちの問題」に対するもっと具体的な世界を構築することは、常に「次」の段階にならざるを得ない。斉藤(真理子)氏が「文春オンライン」コラムで書いた表現を借りると、この小説は日本で「議論のきっかけ」を作るのに「使える本」として機能する可能性を抱えており、それはすでにある程度その展開を見せているようだ。一方、Amazonジャパンのあるレビューは「この本自体は日本で愛されなくても別に関係ないが、この本と同じ位置や影響力を持つ文学は日本にも絶対的に必要だ」と述べている。全ての本がそうであるように、「キム・ジヨン」自体は波紋を起こす小さいが重い石であるだけで、これが今後どのような連関関係に置かれるかによって、話題の共感商品を超えて不当な現実を改善したり、他者への理解を深めるための媒体になるだろう。


文アン·ウンビョル("IMFキッズの生涯"著者)

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私も「82年生まれ〜」は読みましたが、面白くてすらすら読んでしまいました。読むだけでさりげなく色々な知識も入るし、文章も読みやすいです。「文学」とは少し違うかもしれませんが、面白く興味深いエンターテイメント小説で、主要人物と世代が近いのもあり勿論共感する部分というか同じだなあと思う部分も多々ありました。

 

しかし文中にもありましたが、韓国社会文化の事を実際にあまり知らない人がこの本を取り巻く状況を部分的に見ただけで、むやみに韓国を羨ましがるのも違和感はあります。フェミニズムの広がり方や速度も日本とは違いますし、日本ではどちらかといえばフェミニズムセクシャルマイノリティの距離が近い一方、韓国では特に近年ネット上で広がっている「フェミニズム・リブート」においてはマジョリティ/マイノリティという区分よりも「男/女」という、より二元化した生物学的ジェンダーを規範とした対立構造になりやすいという面もあるようです。だからこそこの文章でも「シスジェンダー的である」という日本での指摘をあえて取りあげたのかもしれません。日本は日本、韓国は韓国でそれぞれ異なる問題があり、それはどっちが「進んでる」とかいうような単純な話ではないという事だと思います。結局目くそ鼻くそという。(110位と115位だし正しい目くそ鼻くその使い方だと思う)そして「共感」や「連帯」自体は良い事だけど、現実の社会では「連帯」の輪に入れない・入らない存在の多様性にも目を配るのが本来の意味でのフェミニズムが目指すところのはずだという事もあるでしょう。韓国の場合は兵役システムという逆差別ともいえるような問題もありますし。(女性も志願すれば兵役につくことは出来るそうですが)


日本の場合は60年代の学生運動あさま山荘事件などの顛末がその後の行動様式に大きな影響をもたらしているのではないかと思いますし、もっと遡るなら大戦の時代の立場も真逆で、文化的に近い部分があっても根本に社会的な差異があるのは歴史的に当然だろうと思います。日本で語られがちな「日本とは違い、市民の団体行動で何かを変えることのできる躍動的な国」という目線を「多少神秘化された韓国像」と斬っているのがクールだなと思いました。単純にこの時期日本で公開された映画の内容などのタイミング的な事もあると思いますが。性的な事に対するスタンスも社会的にはかなり差がある(個人間ではあまり変わらないと思いますが)感じがしますし。日本の場合韓国に比べると変化がゆっくりなので世代間によって感じ方のギャップも結構大きいような感じもありますし...業界によってもかなりジェンダーギャップを埋める努力が進んでいる場所とそうでない場所の差がものすごく大きかったりで、個人のいる場所によって感じ方がかなり違うというのもありそうです。

(実際どうなのかというのはまた別の事で、体感的な話として)

例えばの話ですが、語学関係仕事をしている自分の友人が韓国人の友人に日本での仕事の紹介をした時に、「女性が社長で女性の社員が多い会社だよ」という話をしたら、「この規模で女性がトップオブトップなんですか?!やっぱり言っても日本は進んでる」とかなり驚かれたそうなんですが、言われた友人は「語学の分野で特に特定の言語だからっていう特殊性が大きいと思うし、全体で見たら『日本は進んでる』とはとても思えないよね」と言っていました。文化的社会的背景を細かく知らない状態で単純な比較は難しいという実例のように感じました。


それと韓国の人とこの本について話していて共感したのが「日本の文学や漫画、映画にも十分にフェミニズム的な作品は沢山あるけど、今の韓国ならフェミニズムを看板にするだろうというような作品でも、日本ではあえて標榜しないケースが多いようだ」という点です。日本のフィクションは良くも悪くもイデオロギーを前面に出すのはクリエイティブじゃないと捉える節があるような?社会運動が盛んだった70年代くらいまではイデオロギーを前面に出すスタンスの作品もあったようですが、あえて標榜せずに読んでエンタメとして楽しんだ結果、作者の信条が読み手に無意識に伝わって刻みこまれる方が「作品のレベルが高い」と思われてるような気がします。

(「キム・ジヨン」も作品としてその部分でも成功していると思いますが)


結局、この本を「読んで連帯する気持ちを持つ」だけで「なにがしかに参加した気分」になって終わるだけではなく(「話題の共感商品」っていう表現は言い得て妙だと思います)そこから「感想」を超えて自分なりに考えて議論したり、自分たちの社会の未来について具体的な行動を起こすことの方が大事という事だと思います。そういう火種になる力を「キム・ジヨン」は持っているという事ではないかと思いました。

【ize訳】故チェ・ジンリ②残された人々の役割

【ize訳】故チェ・ジンリ②残された人々の役割

2019.10.22

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019102121457218485

 

誰かは今さら何の意味があるのか、また他の誰かは他人の死を利用するなと言う。 彼女がなぜそのような選択をしたのか、本当にそうすべきだったのかも判断できない。 ただ、いつ誰が去ってもおかしくない社会を記録したい。 喪失の時代に残った人々にできること、しなければならないことについて。

 

今も暴力を振るうあなた、人間ですか。

ソルリは先月、SNSでライブ放送を行っている最中に見知らぬ男性に脅威を感じ、放送を中止したことがあった。知人と会っていたプライベートの場で自らファンだと主張する男性から何度も声をかけられ、ソルリは繰り返し拒否の意向を伝えた。ソルリは「怖かった。私はもう外に出られない」と話し、隣にいた知人も「今年初めて(家の)外で会った」と説明した。しかし、男性は再び「一言だけ喋ってほしい」と近づいてきた。ソルリは怯えてうつむいて体をすくめ、知人は「さっきから何度も断っているでしょう」と再度断ってからライブ放送を終了した。拒否の意思を明確にしたにもかかわらず、引き続き接近してきた男性と恐怖に震えるソルリの姿は、彼女が日常で経験してきた不便を垣間見せた。しかし、その事実が記事を通じて知られた後、矢はとんでもないところに戻ってきた。ポータルサイトのコメントの大多数は「過敏な反応だ」「知人はなぜ笑っているんだ」など、ソルリまたはソルリの知人を非難する内容だった。ソルリが経験した状況そのものを「芸能人なら当然甘受しなければならない生活の不便」や「自ら招いた問題」と主張する書き込みも少なくなかった。論点をすり替えてむしろ被害者を非難する二次的加害、三次的加害が起こったのだ。

 

「人々は変わらなかったんです」20代の女性Aはソルリの死去後も継続された悪質なコメントを置いて「何が問題なのか、問題意識すらないようだ」と話した。そして、「悪質な書き込みが直接的な死亡原因でないとしても、故人を性的に侮辱する書き込みを簡単に目にすることができる今のこの社会が正常ではない」と強調した。ソルリだけでなく、その周辺の人々に向けた「サイバーブリング(cyber bullying=ネットいじめ)」も続いている。クリスタル、ビクトリアなどf(x)で一緒に活動していたメンバーをはじめ、関連芸能人のSNSに悪質な書き込みが殺到する。SNSに哀悼の書き込みを掲載しない、哀悼の書き込みを掲載した、ソルリと親しいと知られている、ソルリに言った言葉が気に入らなかったなど、理由はさまざまだ。哀悼のためではなく、暴力を振るう名分のために哀悼を利用するのではないかと思うような姿だ。20代の男性Bは「ソルリについたコミュニティの一部掲示物は男性の自分から見ても窮屈に感じるほど扇情的だったが、死亡後にようやく削除された」「反省どころか『誰がソルリを死なせたのか』を他人のせいにしようとする多くの姿を見て幻滅した」と伝えた。「悪質な書き込み」で苦しんでいたソルリを口実に、再び「悪質な書き込み」を再生産する人間たちは、いったいどうすればいいのだろうか。


人間の尊厳に対する悩み

ソルリはJTBC2"悪質な書き込みの夜"に出演した当時、自分に向けられた侮辱と非難について言及したことがある。彼女は女性グループのf(x)として活動していた青少年期に、ソルリとエレファント(象)の合成語である「ソルファント」と呼ばれるなど、容姿の指摘を受けたり性的嫌がらせやデマに苦しんだ。これは芸能人のなかでも特に女性が経験する問題であり、彼女らが苦痛を訴えるたびに「解決が急がれる」と議論される社会の弊害だ。「スタイル」「露出」などソルリという名前の関連検索語も「誰が私を見るのも嫌だった」と言った彼女がどのような方向の「関心」を受けてきたのかを見せてくれる。ブラジャーを着用しない権利、「視線レイプ」から自由になる権利を主張していた彼女の所信は、「論争」や「奇行」と片付けられたものだった。これについてソルリは、「称賛を含むすべてのルックス評価はしてはならない」と釘を刺し、「認識が変わらなければならない」と力説した。「私を見てると興味深くないですか?もっと興味深い人達が増えてほしい」というソルリの言葉のように、彼女は自分に対する関心を影響力に変えようとした。悪質なコメントについて直接反論し、世相の問題提起のために声を上げており、シンジ、スンヒ、Ha:tfeltなどゲスト出演した女性芸能人と連帯した。

 

ソルリが世を去った後数日間のポータルサイトのリアルタイム人気検索語1位は、「ソルリ動向報告書」だった。彼女の死亡後、管轄消防署が消防災難本部に報告するために作成した動向報告書、管轄交番が警察署及び警察庁に報告するために作成した状況報告書がすべて流出したものである。機関の報告用であり、消防隊員と警察が出動した当時の状況が詳細に描写されているために外部には公開しないのが原則だが、内部の職員達はこれを破り、文書は瞬時にSNSやインターネットコミュニティを通じて流布された。ソルリは過去、病院へ行った時に職員がチャートを流出させて生まれたデマを例に挙げ、「プライバシーが守られなかった経験が多かった」と語ったことがある。しかし、彼女は死後も再び「望まない」興味の的になってしまった。ネット上のコミュニティでは、「解剖検査係がうらやましい」といった故人に向けた性的侮辱が後を絶たず、YouTubeには「怨霊と対話した」というシャーマンからチョ・グクの長官辞任の原因と関連付ける強引な主張まで、ソルリの死を掲げて「クリック」を誘導するコンテンツが氾濫した。ソルリの尊厳は今、この瞬間にも絶えず侵害されている。一人の生と死を娯楽だけにするこの社会で、人間としての尊厳性はどこにあるのか。

 

記者の役割

ソルリの死亡後、マスコミは過去の発言から露出写真、遺体が運ばれる現場と遺族が非公開を頼んだ遺体安置所まで関連記事を掲載し、最低限の報道倫理も守らない行動を見せた。記者に一次的な責任があるが、記者個人「だけ」の問題とは考えにくい。「キレギ(訳注:記者+ゴミ=スレギの造語。所謂マスゴミ)」が活動する背景には、ポータルサイトの記事掲載システム、収益だけを追うマスコミがある。記事には広告が貼られ、広告は露出頻度が高いほど収益を出しやすい。また、メディアにとってポータルサイトはマスコミ社独自のホームページを訪問しないネチズン流入させる機会であり、他の多くのマスコミ各社と競争する空間でもある。似たような内容の他の記事より上段に上がるために、ポータルメインに引っかかるために、マスコミ各社はより早くより多く刺激的な見出しの記事を抜き出している。この過程で、取材なしに以前の記事をそのまま「コピペ」する記事が殺到する。ここに何の取材もなく、最低限の事実確認すらせず「脳内妄想」だけで記事を書く一部の水準に達していない記者、そんな記事もアクセス数が高く推奨するデスクが加われば、読者に幻滅を与える昨今のメディア環境が完成する。

 

「熱愛説の記事が出てもクリックしないでほしい。そうする事で、デスクがそのようなスクープを掘り起こそうと急き立てなくなるから」と、あるインターネット新聞社の記者Cは言う。記者は自分でどんな事案を扱うかを決めて動くが、上の指示に従い取材アイテムを決めて記事を作成したりもする。Cは「ゴミの音を聴くのに等しいので、自己恥辱感がある」としながらも、「熱心に取材した記事が質の低いアビュージング(abusing=いじめ)記事より注目されなければ、デスクはまた『ゴミのような』記事を書くように指示し、悪循環が繰り返される」と語った。また、別の記者Dも「質の低い記事には無関心が答え」とし、「需要が消えてこそ供給はなくなるだろう」と語った。記者自身も知らないうちに「キレギ」になっている時もある。記者が書いた記事は編集局長、編集長など編集権限を持つ「デスク」の編集(デスキング)を経て世に出るが、この過程で記事の文脈自体が完全に覆されたり、刺激的なタイトルに変わることも多い。デスクが自分の名前では書きづらい記事をヒラの記者の名前で出稿する場合も少なくない。「国民の知る権利」を「知るべきこと」と「知らなくていいこと」に分けるとするなら、ポータルサイトとマスコミの奇異な構造は前者、芸能人の違法ではない私生活は後者だろう。しかし今のマスコミがこのように悩んでいるのかどうかは、非常に疑わしい。

 

全ての心をいたわる

「嬉しい時に喜び、悲しい時に泣いて、お腹がすいた時には力が出なくて辛く能率が落ちるという、自然なことが自然なままに自然に受け入れられるようになるといいですね。アーティストの方々は人々を慰める仕事をしている方だからこそプロ意識もあるし、でも良き人としてまず自分の面倒をみて、そんなそぶりを見せないようにする事でむしろもっと病んで痛がっているようなことがなかったら...本気でなかったら、本当になかったらいいなと思います」

IUは昨年「2018度ゴールドディスク」の授賞式でデジタル音源部門大賞を受賞し、このように述べた。芸能人は職業の特性上精神の健康が脆弱になりがちだが、プライバシーを保護してもらえないため、病院や相談センターなど関連機関に助けを求めることは難しい。中央自殺予防センターのペク・ジョンウセンター長兼慶煕大精神健康医学科教授は、「芸術文化分野の従事者の精神疾患の発病率は他の分野より高いと知られているが、彼らは大衆の反応を見極めなければならない深刻な感情労働者でもある」とし、「文化コンテンツが発展するほど、先進的にメンタル健康を汲み取ることができる環境が与えられる必要がある」と説明した。


現在、さまざまな企画会社が大学病院や専門家と連携し、所属芸能人のメンタルヘルスを気にかけている。いくつかの企画会社の場合、アーティスト管理チームと心理カウンセラー、所属芸能人を観察し、カウンセリングするまた別の専門家などと引き合わせて芸能人の心理的な問題の解決に努めたりもする。しかし、大半の企画会社は関連福祉は不備なのが現状だ。公正取引委員会の「大衆文化芸術人標準専属契約書」は、「乙(芸能人)の人格教育及びメンタルヘルス支援」条項を通じて企画会社が芸能人の身体的・精神的準備状況を考慮するようにという内容を含んでいるが、これはあくまでも法的義務ではない勧告事項だ。制度的改善が急がれるが、直近では周辺の支援を積極的に活用することも重要だ。韓国コンテンツ振興院は2011年から大衆文化芸術支援センターを通じて、青少年の芸能人、練習生たちのための心理相談を提供している。企画会社または個人が直接ホームページを通じて申請すれば、心理相談士が訪問して1:1の相談を実施する方式だ。2019年には83人が1人当たり平均1.9回(10月現在)相談を受けた。性倫理、ストレス管理などの素養教育プログラムもある。大衆文化芸術支援センターの関係者はこれについて、「心理相談の場合個人の申請も受け付けているが、実質的なケースは少ない。あまり知られていないようだ」と伝えた。

 


メンタルヘルスのケアは芸能人だけでなく、彼らを大事にし応援する皆にも必要だ。20代の女性Eはソルリの死亡消息に接した当時を「最初は信じなくて、その次は音が出すのが嫌で、タオルに顔を埋めてわあわあと泣いた」と回想した。20代の女性Fも「私がこんな風に生きていてもいいのかと思ってしまい、食事が喉を通らなかった」と話した。EとFはどちらもソルリの知人やファンというわけではなく、ただソルリを見て時には心の中でエールを送っていた大衆だった。Eは、「ソルリの痛みを和らげることができなかったことが申し訳なく、後悔し、ク・ハラのSNSに応援のコメントを掲載した」と話した。彼女は「大丈夫です、一生懸命生きる」と話す映像を見て、彼女インスタに応援のコメントを書き込んだ。「ちっぽけな私の言葉が届くかどうかは分からないが、こうでもしたかった」と説明した。20代の女性Gは「いざ大きな過ちを犯した男性に対してはは『無視する』という名目で論外にするのに、女性だけに『完全無欠』という物差しを突きつけたのではないかと振り返るようになった」と打ち明けた。ペク・ジョンウセンター長は、「故人の行動に共感した方々、彼女を尊重していた方々が経験する喪失感は、極めて正常なこと」としながらも、「すでにストレス要因が多く蓄積され、かろうじて耐えていた人々にとっては非常に絶望的なことなので、周囲から『こんなことでそうなるのか』と思われれば大きな傷になるだろう」と要請した。悲劇の繰り返しに歯止めをかけるためには、メンタルヘルスに対する認識改善とともに政策的レベルでの福祉が必要だ。ベク・ジョンウセンター長は、これに対して「英国やオーストラリアには"ヘッドスペース"として地下鉄駅やショッピングモールなどに万満25歳以下の青少年なら誰でも無料で利用できる精神健康福祉センターがある」「10代と20代の死亡原因の1位がメンタルヘルス(自殺)だが、未だに私たちの社会には偏見と不利益への懸念など、助けを求めることができないようにする障壁がたくさんある」とした。また、「最後の瞬間ではなく、美しく情熱的な人生全体を記憶する過程が必要だ。こうした心を一つにして議論し、これ以上悲劇が起きないようにする社会的な方法を探さなければならない」と力説した。大事なことは、「私」を含む周辺、ひいてはみんなの心を顧みることだ。今この文を読んでいる、あなたの心も。

 

文 イム・ヒョンギョン


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【ize訳】故チェ・ジンリ ①ドロシーのための祈り

【ize訳】故チェ・ジンリ ①ドロシーのための祈り

 

2019.10.22

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019102121467254094

 

約1年前の昨年10月25日、リアリティー番組"真理商店(ジンリサンジョム)"の初回が公開された。ソルリはこの番組で本名である「チェ・ジンリ」をかけてポップアップストアを運営し、人々と直接会う姿を見せた。彼女はこの番組に出演した理由について、「私の味方」または「私だけの人を沢山作れるように」するためだと語った。この6月21日にはJTBC"悪質な書き込みの夜"に出演し、自身に対する悪質な書き込みを読みながら麻薬をしているという疑惑について明確に釈明し、ノーブラについて「個人の自由」だという自分の所信を明らかにした。同月29日には収録曲3曲すべての作詞に参加したシングルアルバム"Goblin"を公開した。ソルリはアルバム発売直後に開催したファンミーティングで、「『Dorothy』は夢見る私、『On The Moon』は眠る前の私、『Goblin』は現在の私を盛り込んで、皆さんがご覧になっていない多くの部分をお見せしたかった」と収録曲を紹介した。SNSだけでも検索語1位に上がっているスターが一日中ポップアップストアを守りながら人々に直接会い、自分を巡る否定的な視線に対して正面から声を出しながら、歌手としては自らを歌の素材にして真の自分を伝えようとした。この1年間、ソルリは芸能人として受ける視線に隠された人間「チェ・ジンリ」を見せるため、多様な試みを行ってきた。


「子どものころから機嫌をうかがうような行動を嫌がった」"悪質な書き込みの夜"でダンスの練習中に「上の人たちが来た時に急に頑張っている姿を見せるのはプライドが傷つくので、大雑把に踊っていたダンスをそのまま見せた」というエピソードを打ち明けながら、こう語った。普段の性格そのままに、彼女はSNSでも自分ではない姿を無理やり作り出そうとはしなかった。恋人とデートしたりキスしたりする写真、自由に遊ぶ写真、あるいはブラジャーを着用していない「ノーブラ」状態で日常を送る写真をそのままアップした。しかし、これを眺める世間の視線は矛盾していた。"TVリポート"と"Dispatch"が私生活の領域である彼女とチェザのデートを密かに撮影して報道したことは問題視されなかったが、ソルリ自らが恋人への愛情を表わすのは、まるで不都合なことのようにマスコミに絶えず取り上げられた。女子グループ活動当時の未成年者だったソルリに「セクシーに肌あらわ」(2010年ソウル新聞)、「危険な反転後ろ姿」(2012年テレビデイリー)などのタイトルをつけるもの、あるいはこのように女性の身体を性愛化して窃視する社会的視線の中で女性だけが不便な下着を着用し、身体を隠さなければならない現実は議論されなかった。一方、彼女が単に「楽だから」という理由で選択したノーブラ姿は、写真の中であえて隠さなかったという理由で非難の対象になった。女性グループの女性芸能人として大衆の固定観念から逸脱した行動をするほど、そして自分の考えを現わすほどにソルリは問題のある人物として消費された。


ソルリのシングルアルバムのタイトルであり、タイトル曲の"Goblin"は、このように大衆に愛されにくいにもかかわらず、ありのままの姿で愛されることを望んでいた自分に対する自伝的なストーリーとみられる。「ゴブリン」というタイトルは、彼女が飼っていた無毛種のスフィンクスキャットの名前であり、人々を惑わし苦しめることで知られているこびとの魔物を意味する言葉でもある。彼女は"Goblin"発売直後に行われたファンミーティングで、「SNSに猫のゴブリンに対して『いやらしい』『自分みたいなものばかり飼う』と怖がる書き込みが多かった」と言い、「(曲で)先入観についての話をしたかった」と語った。"Goblin"の歌詞は「君をいっぱい抱きしめていたいのは/君の心の白い霧/黒く染めるよ」と、白を善・黒を悪と思う世の中の固定観念を覆したいという想いを語り、「Don't be afraid of the cat without fur(毛のない猫を怖がらないで)」「just wanna tell you hi(あいさつだけしたかっただけ)」というメッセージを伝える。人々の期待と違う姿は、まるで毛のない猫や魔よけ「ゴブリン」のように馴染みが薄く思えるが、実はただ真実に近づこうとする挨拶に過ぎないという心の表現。実際にソルリは"悪質なコメントの夜"でノーブラが話題になっているにもかかわらず写真をアップする理由について聞かれると、「怖くなって隠れてしまうこともあるけど、多くの人がこれ(ノーブラ)に対して偏見を持たなくなってほしいという思いからやめなかった」と話した。


しかし、芸能人は常に大衆の愛を必要とし、同時に愛されてこそ生存できるジレンマに陥る。"Goblin"のミュージックビデオは「解離性人格障がい(いわゆる多重人格)」を持っているという説明を土台にソルリの3つの自我を見せながら、彼女が経験した心理的葛藤を描写する。一番目のソルリは見知らぬ人々が率いる車に運ばれて家に入り、無気力に椅子に座っている。彼女は家の中に侵食してくる人を避けようとするが、結局は他人がささやく言葉に囲まれる。一方、二番目に登場したソルリは顔にメイクをして人と区別されるような華やかな服装を身につけ、人々に先に話しかける。しかし、他人の動作をまねて彼らに混ざろうとする試みは彼女を疲れ果てさせ倒れさせ、人々は終始目を覆いながら彼女の努力を認めてはくれない。大衆の視線に対する恐怖と愛されたいという気持ちが衝突する昼が過ぎて夜になると、戦士の服装をした三番目の自我は、最初の自我をなくす。他人の視線を恐れる気持ちを毎晩抑えてこそ、芸能人の「ソルリ」として大衆の前に出ることができたという意味だろう。それでも人間「チェ・ジンリ」として愛されたいという気持ちまでを抑えることはできなかった。この1月、インスタグラムにアップされた"真理商店"スタッフや友人たちとのホームパーティーの写真が赤裸々という理由で議論になると、ソルリは"真理商店"の最後の映像で「私を知っている人たちは悪意がなかったというのをよくご存知だが、私にだけ特に色眼鏡をはめて観ていただいている方が多くて心が痛いことはある」と言いながらも、このように付け加えた。「真理商店に多くの関心を持って、また最初から精読してください。真理(ジンリ)をもう少し知ることができます。真理(ジンリ)を求めて記者の皆さん私を少しは可愛がってください。視聴者さんたち、私をかわいがってください」


ソルリが"悪質なコメントの夜"で、容姿の評価に対する自分の考えをしつこい程に語ったという点は象徴的だ。彼女は容姿に対する悪質なコメントや評価についてキム・ジミンとサンドゥルの会話を聞きながら「称賛度評価」という考え方を示し、特に最後に放送された回でイタリアでは容姿への称賛について韓国より慎重だというアルベルトの話を聞いて「容姿の評価については本当に慎重にするべきではないかと思う」と話したこともある。ルックスが競争力の一つと言える芸能産業に従事し、彼女自身も常にルックスで話題になったり愛されたソルリがルックス評価に対する問題意識を語ったというのは皮肉に思える。しかし、彼女は"悪質なコメントの夜"でf(x)時代の「ソルファント(ソルリ+象を意味するエレファントを合成したもの)」というニックネームが付けられた時期について直接言及し、「あの時は誰に見られるのも嫌だった」という苦しい心情を語った。"真理商店"でも、ソルリはオーディションを受け容姿への指摘を受けたファンから「痩せろって書いてほしい」と要請されると、「あなただけに痩せろと言うのは嫌だ。一緒にダイエット頑張ろうって書いてあげるから」と話した。彼女は芸能人として大衆から愛されるための外見管理と、ダイエットが必要な現実を否定しなかった。ただ、容姿の評価が人を尊重するよりも品評化したり対象化することになりうるという問題意識を表現し、自らの日常の会話でも、誰かを品評の対象にすることに気をつける姿を見せた。このような彼女姿は、芸能人の「ソルリ」である以前に人間「チェ・ジンリ」として尊重され愛されたいという表現でありながら、他人が当然だとか正しいと思う「白い霧」を、「黒く染める」変化を作り出すための努力でもあった。


自ら「夢見る私」についての話だと明かした”Dorothy"の歌詞の中で、ソルリは自分が夢見た多様な自我を見せてくれた。「嫉妬のドロシー/ 愛のドロシー/ 真理のドロシー/ 派手なドロシー」という歌詞を歌うソルリの声を包むバックミュージックは、まるで"オズの魔法使い"の中のドロシーが去った冒険を表現するように遅い速度で始まり、だんだんと速いビートと多様なメロディーの重なりに転換されていく。反面、多様な「ドロシー」を歌うソルリの声は曲が終わるまで最初から始まったリズムとメロディーをしっかりと維持しながら、「未来のための祈り」という歌詞にたどり着く。これはまるで自分を絶えず攻撃する世の中でも、自分だけの歩き方で真実の「チェ・ジンリ」であるのを止めなかったソルリの生前の姿を思い浮かばせる。すべての人間がそうであるように、ソルリも道徳的に常に完璧な姿だけを見せることはなかった。f(x)脱退当時はファンに失望を抱かせたり、自らも認めたように失敗もあった。それでもソルリは、常に大衆から愛されるべき芸能人の立場から人間としての真実を示そうとしたし、自らが思う信念を語った。特にこの1年の間には、自分の位置と影響力を認識して声を上げ、芸能や音楽で自らをコンテンツにしてますます多様な「ドロシー」を見せてくれていたところだった。もし、もっと多くの時間が与えられていたら、自分だけの声で大衆と疎通する方法を徐々に探していく彼女の成長期が見られたかもしれない。しかし、そのドロシーはもはや、世界の知られざるところへ永遠の冒険に出かけた。もうソルリのためにできることは、遅ればせながら「未来のための祈り」をささげることしか残っていない。どうか彼女が今旅立った冒険では自分だけの歩き方を止めないことを、そしてどんな「ドロシー」の姿でも愛されることを願って。


文キムリウン

【ize訳】SuperM「ビルボード200」1位、その次が気になる

【ize訳】SuperM「ビルボード200」1位、その次が気になる

2019.10.18

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019101806227286651

 

この13日に公開された、10月19日付「ビルボード200」1位はSuperMの「SuperM:The 1st Mini Album」だ。SHINee、EXO、NCT127、WayVはそれぞれ「ビルボード200」で成績を出してはいる。しかし、「NCT#127 We Are Superhuman:The4th Mini Album」が11位まで上がってきたことを考慮すると、いわゆる「スーパーグループ」を生み出した価値はある。アルバム発売につながる活動やシングルを公開したことがない状態で「ビルボード200」1位に上がったこと自体が珍記録だ。K-POPの特異な市場状況と近年の「ビルボード200」戦略が統合され、面白いことが可能だった。

 

成績をもっと詳しく見てみよう。「ビルボード200」はアルバム販売チャートで、アルバムだけでなく、ストリーミングと音源の販売成績も換算して反映する。「SuperM:The 1st Mini Album」の成績は16万8000枚単位であり、その中の実物アルバム販売量は11万3000枚、デジタル音源は5万1000枚だ。ストリーミングの成績はアルバム単位で4000枚、約500万回程度になる。SuperMのアルバムは米国市場以外には発売されず、韓国を含む米国以外の地域のファンは米国で直接購入をするしかなかった。アマゾンなどのショッピングモールから韓国に直接配送されるとチャートの成績に反映されるかどうかは定かではない。(訳注:buzzfeedなどの記事によると、海外からの直接購入分はビルボードチャートには入らないようになってるとの事です)とにかく多くの人が直接配送ではなく、配送代行を利用していた。


アルバムはメンバー別7つのバージョンと「united」バージョン、計8つのバージョンで発売された。公式サイトでは60種以上のMD、公演チケットバンドル(訳注:グッズや公演のチケットとアルバム音源DL権の抱き合わせ販売)を販売した。米国市場でMDや公演チケットをアルバムと合わせて売るのはよくあることだ。特に、アルバム/コンサートバンドルは、ここ数年間特別な最新ヒット曲がない有名アーティストの名前を維持するために「ビルボード200」を攻略したり、最近の人気アーティストでもアルバム発売初週の成績を確実に確保するための戦略として人気が高かった。確実なフィジカルアルバム購買層を攻略するためにパッケージを多様化することも、もはやおなじみである。テイラー・スウィフトは最近、アルバム「Lover」のデラックスバージョンを4種類作った。先日、カムバックした伝説的なバンドTOOLは、アルバム/コンサートバンドルはせず、独占動画が再生される4インチ画面がついた45ドルのアルバムパッケージを売って「ビルボード200」1位に上がった。程度の差はあれ、問いただすほどの商法ではない。


要するに、SuperMの戦略に疑問を持つ必要はない。SuperMは米国市場に成功裏にデビューし、所属会社のSMエンターテイメントは米国市場で歴代最大の成果をあげた。ただし、他の質問をしてみよう。SMエンターテイメントは今やアメリカ市場で通じるようなメジャーグループを持つようになったのか? 質問をもっと具体的に変えれば、SuperMは固定的なKPOP需要層を超えて、大衆的な基盤を持つようになるのだろうか。K-POPグループが「ビルボード200」1位になることも注目すべき成果だ。しかし、それが今のSMエンターテイメント、または全世界でスタジアムツアーを行う防弾少年団を除いたK-POPアーティストが、一般的にアメリカ及び西欧圏で持つ市場のパイを超える成功を約束する証となりうるのか?「ビルボード200」1位は「スーパーグループ」を証明する結果なのか、そうでなければそうなるために必要な過程だったのだろうか?


これは、K-POPにおける「スーパーグループ」とは何かを問う質問になるだろう。言い換えれば、SuperMをK-POPの「アベンジャーズ」と呼ぶのは理にかなっているのだろうか?「アベンジャーズ」は個別のキャラクターの叙事と性格を一堂に集めて衝突とシナジーを楽しむものだ。その中で文脈はさらに豊かになり、各キャラクターは鮮明になる。しかし、SuperMの全てのメンバーはそれぞれのチームの中で既に数年間、その仕事をしてきた。彼らは「文字通り」各自のユニバースを作っていっているところだ。この疑問に対して「SuperMは既存グループのファンを失望させることはないし、一種のクロスオーバーだし、メンバーでさえ流動的なのだ」と答えるとしたら、最初の質問に戻ろう。SMエンターテイメントは今やアメリカ市場で通じるメジャーグループを持つようになったのか? もしくは、できるすべてを動員して「ビルボード200」1位のアルバムをひとつ持つようになったという事なのだろうか?


文/ソソンドク(大衆音楽評論家)

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SuperMのアルバム売り上げ、TEAが1000くらいだったのでMDとチケットバンドルの分もその程度かと思っていましたが、実際は5万1000枚(DL)分がMD&チケットバンドルだったみたいですね。

(最初このデータがビルボードの記事になかったんですが、ニューヨークタイムズにNielsenのデータとして載ってたのでこちらが正しいと思います)

色々言われてはいますが、バンドルがあるにしてもBTSが初めてビルボード200で1位をとった「LYS:Tear」(4バージョン販売)のポイントよりも多いし(13万ポイントくらいだった)フィジカルの枚数もSuperM11万枚とBTS10万枚で、Tearの時はアマゾンのトラブルがあったらしいにしろそこまで大差があったわけでもないようです。つまりBTSの「最初」も似たようなポイント内訳ではありました。BTSの場合はファンがスミン(ストリーミングの空回し)も同時に長期に渡って仕掛けていたという背景もありますので、今回とは少し異なってきますが。チケットバンドルについてはBTSも「LYS:Answer」の時のキャパ4万5千のシティフィールド公演はバンドルチケット(チケットを買うとアルバム1枚分購入になる抱き合わせチケット)でしたし、これで2回1位とってたと思います。

NCT127のアルバムもあのくらいの活動期間で11位までいってた(しかもNCT127はBTSほどアメリカ外のファンの規模も大きくない)という下地を考えると、作戦がどうであれ「アメリカ国内で」お金を出したファンがこれだけいるのは事実なのでそれがチャートに反映されたに過ぎないということでしょう。

だからこの文章のように今回の成績には文句のつけようがないはずで、むしろこの先これをたたき台にしてどうやって欧米圏でもより大衆的にメジャー化していくのかという方に目を向ける方が建設的じゃないかと思います。そっちの方が重要。

【W Korea】スーパースター来韓す

【W Korea】スーパースター来韓す

キム・ヒェミン(フリー)

2019-09-02T21:40:38+00:00

http://www.wkorea.com/2019/09/03/슈퍼스타-내한에-부쳐/


トム・ヨークが韓国で単独公演をした。ステージを作るだけで数億が消えるU2はついに12月に来韓を控えている。韓国公演市場は確実に大きくなった。しかし、国内の洋楽音楽市場も成長したと言えるのだろうか。  あんなにも多かった夏の大型ミュージックフェスティバルはなぜ突然消えたのか。つじつまが合わないこの状況を、業界の長年の企画者が地道に構造的に見てみた。


韓国に本格的なロックフェスティバルが出現してから数年足らずの時、オンライン上の掲示板や書き込み欄には、「我々のフェスラインナップは隣国の日本に比べて足りない」という批判の書き込みが多かった。それはもちろん、以前にもなかった現象というわけではなかった。たとえば「あるミュージシャンはよく日本へ行くのにどうして韓国には来ないの?韓国が嫌いなのか?」という書き込みは90年代PC通信の時から存在した。このようにいつも同じパターンの不平を書くのが退屈だったのだろうか。レディオヘッドトム・ヨークは幼い頃に韓国人の同級生にいじめられ、韓国を嫌っているという根拠のないうわさまで出回った。自分が好きな誰かが韓国に来ない理由をどうしても知りたかったファンはこうした噂を広め、もしかしたらある人たちはまだこのような話を「ファクト(事実)」として認識しているはずだ。


しかし、韓国を嫌うというトム・ヨークのいるレディオヘッドは2012年に韓国を訪れた。うわさの主人公トム・ヨークは先日、ソウルで単独公演まで行った。彼らが、あるいは彼が突然韓国を好きになったという事ではないだろう。それならその間、韓国の音楽市場が、公演市場が急成長したおかげだろうか。それとも、多くのメディアやファンたちが誇らしく語るように「世界最高」に近い韓国のオーディエンス特有の熱狂的な反応が口コミで彼らに伝わったのだろうか。訪韓はほとんど不可能なのだと多くの彼らが思ったUは来る12月、初の来韓公演をする。確かに来韓公演の量は飛躍的に増えたが、一方で「韓国の夏の音楽フェスは滅びた」という話も聞かれる。これまでに何があったのだろうか。


韓国コンテンツ振興院では、毎年夏ごろに「音楽産業白書」を発刊する。国内の音楽産業に関連した統計が掲載されるほぼ唯一の資料集である(通常発刊年度を起点に2年前の統計資料が出ているので、最近出た音楽産業白書の資料は2017年度基準だ)。ここに紹介された国内音楽公演市場の成長速度は信じられないほどだ。2007年に1,988億ウォンだった市場が2017年には9,441億ウォンの市場へと拡大したという。音楽公演の成長はソウルと首都圏だけに限られた話ではない。人気のあるオーディション番組を全国ツアーとして連携して成功を収めた事例もあり、首都圏で成功したフェスティバルが地方に進出したり、自治体で首都圏の成功的な公演をベンチマーキングした事例もある。このように公演市場が成長する間、音楽を消費するパターンは完全に変わった。10年以上前までは、「ダウンロード」が音楽産業の話題だったが、誰もが知っているように今は「ストリーミング」で音楽を聞く。公演市場は、この現象の反対給付として存在してきた。人々はいつでも簡単に聴ける音楽をあえて保存したり購買したりする代わりに、反復できない音楽的瞬間、すなわち公演を見た経験を購買し保存している。公演会場で写真を撮ったり、会場で記念品を買う行為などが「保存」に当たると見られる。


一連の過程を通じて、国内音楽市場(すべての音楽関連事業の売上を加えた市場規模)はさらに大きくなった。2007年には2兆ウォンに及ばなかった規模は2017年基準5兆以上に拡大された。BTSのように国際的な人気を得ているスターたちの登場と活躍(2009年3千万ドルにとどまった音楽輸出額は2017年基準5億ドル以上の規模に増加した)がこの成長の勢いに大きな役割を果たしたが、ストリーミングをサービスしたり、音源を流通するオンライン会社と公演事業主体の急激な売上上昇が占める割合はそれ以上だ。これだけ見れば、人々は以前よりもっと多くの音楽を聞いて、さらに多くの人が公演場に行っているということだ。


誰でもスマートフォンを通じてより頻繁に音楽を聴けるようになったが、これによって人々がより多種類の音楽を聞いているとは言えないだろう。関連統計がないため根拠を提示できないという限界はあるが、音源市場や公演市場と「ランキング」内の違いが大きいからだ。音源市場で絶えず買いだめ疑惑が出てくるのも、チャートの成績と直接的に関係のある良い場所に音源を広報するために企画会社と流通会社が全力を尽くすのもこのためだ。「以前よりもっと多く聞くようになった音楽」は結局「チャート内の音楽」で、「より多くの人が行く公演」もほとんどは「有名な音楽家の公演」だ。国内ヒットチャート上位100位をのぞき見ると、楽曲のほとんどが国内の音楽家の曲だという事実も容易に知ることができる。ドラマや映画、あるいはその他特殊な要因によってヒットしたごく少数の外国曲を除けば、このチャートはいつも韓国歌謡の独壇場だった。「ボヘミアンラプソディー」の場合のように例外的に映画のサウンドトラックのヒットが続かない限り、国内に進出している海外の直配会社が海外の音楽部門で成長を期待するのは大変難しいことになった。海外の音楽ライセンスを通じて名を知らせたインディーズ系の会社は、今ではほとんど消えたり他の分野の事業をしている。音源·音盤の販売チャートだけを見ると、以前に比べて韓国人が海外の音楽をよく聴いているという証拠を見つけるのは確かに難しいようだ。にもかかわらず海外音楽家の来韓公演が増えているとすれば、何かつじつまが合わないことだ。確かに理由がある。


アジア音楽市場で圧倒的な存在だった日本の事情から考えてみよう。2018年国際音盤産業協会(IFPI)の資料を見ると、日本は依然として米国に続き世界2位の市場の職を維持している。しかし、日本の音楽市場は以前とは大きく変わった。70年代のベビーブーム世代や80年代のバブル経済時代の世代とは違って、現在の日本の音楽市場を主導する新しい世代は海外の音楽を積極的に消化しない。多彩な海外音楽を購入していた世代は今や中年を超えて老年に入り、音楽市場での影響力もますます弱まっている。市場規模を支えるのは、アイドル産業や伝統的な人気ジャンル、人気歌手たちだ。そのため、海外の音楽家たちが新しいアルバムの発表と共に日本へ行って熱心に放送プロモーションをしたり、ツアー公演をすることはもはやだんだんと珍しくなっている。


「もう大阪公演も簡単ではないんです」

アジア各都市を行き来しながら公演と関連した仕事をする八幡幸樹さんは、「海外の音楽家が日本で公演をする際、東京以外の都市で興行に失敗することが多くなる傾向にある」と話す。日本国内のアルバム市場が縮小し、すなわちアジアの他の国には行かなくても日本に行ってプロモーション活動をする音楽家たちが多かった理由であり原動力であった部分が弱まり、西欧の音楽家にとって「アジア市場=日本市場」という公式はますます昔話になりつつある。日本市場が少しずつ弱まっている間にアジア各国では新しいフェスティバルが生まれ、海外のミュージシャンを渉外する新しいプロモーター(企画会社)が大挙して誕生した。厳しい審議手続きで悪名高い中国にも、西欧の音楽家を渉外してプロモーションする企画会社がオープンした。韓国と中華圏、あるいは東南アジアをつなぐ新しいツアー市場が生まれ、アジア市場ツアーを専門にする公演エージェントも登場した。この「新しい市場」はアルバム市場が急速に下り坂に入り音楽市場が停滞期に入った2010年前後の世界の音楽市場で注目され始めたが、この時期から来韓公演が大きく増加したのは決して偶然ではない。


2010年代に入り、国内音楽市場では成功したフェスが登場した。例えば、海外のミュージシャンを呼ばずに成功した「グランドミントフェスティバル」、初期の難関を乗り越え、最近は本格的に成功街道に突入した「ザラ島ジャズフェスティバル」など。このような成功事例が出ると、「資本」と「ブランド」を持つ人々が公演産業に関心を持ち始めた。彼らが公演に投資したりマーケティングやプロモーションに費用を使い始め、以前は高いリスクや資金力の限界のために企画会社が思いもよらなかったようなスーパースターが初めて韓国で公演する事態も起きた。韓国の夏のフェス、夏のロック・フェスが一時5・6ヵ所にまで増えた背景には、このような投資者たちとブランドの姿があった。


しかし、市場規模に比べて過度に多くのフェスが乱立すると、各フェスの赤字規模が深刻な状態になり、結局投資したり後援した企業が大挙して去ってしまった。こうして「夏のフェスが滅びた」という話が出るようになったのだ。今年の公演直前にキャンセルされた「ジサンロックフェスティバル」や、ヘッドライナー公演のキャンセルやずさんな進行で話題になった「ホリデーランドフェスティバル」は、主催会社がフェスティバルをした経験や資本力が豊富でない状態でイベントを準備したという共通点がある。自ら蓄積した経験と資本で成長した事例もあるが、国内のミュージシャンたちが出演するフェスが飽和状態に入った今、新生のフェスが企画力だけで成功の道に入る確率は以前よりかなり低くなった。一方、大型公演と大資本がベースになったフェスを経験した人々の目線は非常に高くなっただろう。依然として人々は海外のミュージシャンたちが出演するフェスティバルに対して高い期待値を持っており、その期待値を満足させるためには巨額を賭けなければならない。不幸にもそのような賭けをすることができる彼らは、業界からはほとんど離れたようだ。一例を挙げれば「圧倒的ラインナップ」で「より快適で楽しい観覧環境を提供」したと自評していた現代カードの「シティブレイク」はたった2回だけ開催されて消えた。資本とノウハウがあった人々にとっても、「成功的なフェスティバル」とはあまりにも難しい課題だったわけだ。もうポスターの上段に海外ミュージシャンの名前とともに企業ブランドが刻まれるフェスは5tadiumのようないくつかのEDM系列のフェスだけだ。いわゆる「傀儡フェスティバル」がどんなものなのか知りたければ、企業のロゴが前面に登場するフェス、スポンサーのロゴが多いフェスを訪れればよい。資本はいつも安全なものを素早く探すからだ。


ここまでくると、国内で海外音楽市場が拡大していないにもかかわらず韓国の公演が増えた理由が、以前には来なかったスーパースターたちが韓国に訪れる理由が分かるだろう。音楽市場が急変する間、アジアという新興市場が浮上し、成功的な大型ライブを通じてブランディングや投資に成功する資本家たちが生まれた。その過程を通じて公演産業従事者が増え、公演企画をしようとする人もさらに多くなった。


問題は観客だ。これまで公演会場に頻繁に行った人々は支出を無制限に増やすこともできないし、公演会場に頻繁に行ける金銭的な余裕や文化的な関心、「ナイトライフのある人生」をすべて備えた音楽ファンは決して多くないため、彼らは選ばなくてはならない。先日、企画したあるインディーズバンドの韓国公演の前売りを買った観客の一人が、公演をキャンセルしつつもこのようなメッセージを残した。「すみません。ライブ鑑賞に使える予算が多くけどU2の公演を予約しようとしたため、このバンドの公演を見るのはまたの機会しなきゃいけなくなって」ライブを直接準備してみると、彼と似たような悩みと苦悩が盛り込まれたメッセージや書き込みをたびたび見かける。韓国ではU2の公演を見るファンとケンドリック・ラマーの公演を見るファン、そしてインディーズバンドの公演を見に行くファン層の多くが重なる。普段インディーズバンドの公演を見に行っている人なら、ケンドリック・ラマーの公演にも、U2の公演も見に行く趣向があるという意味だ。西欧の音楽産業従事者たちにこの話をすると信じられないという表情をするが、国内で公演を企画してきた私のような人なら、これが間違っていない話であることをよく知っているはずだ。


そのため、同じ時期に来韓公演がいくつか開かれると、適正観客を動員する公演は常にごく少数に過ぎなかった。公演回数が増え公演産業の規模は大きくなったが、個別の企画会社や公演の収益性は落ちかねない。実際に関連統計を見ても、音楽公演企画会社の平均売上が2016年の13億5千万ウォンから2017年には12億6千万ウォンに減少したことが分かっている(この期間、全体の音楽公演産業の売上は17%以上増加した)。時折メディアには、韓国のファンの熱狂的な反応が海外のミュージシャンを感動させ、その影響で来韓する音楽家が増えたという報道が出ることがある。そのような熱気が感じられる公演が全体で占める比重は大きくなく、実際、観客の反応がその次に行われる公演の実現可否に及ぼす影響力といえば微々たるものだ。韓国の観客を喜ばせるその記事の裏には、決して単純ではない重層的で複合的な要因がお互いに影響しながら存在している。


とにかくレディオヘッドポール・マッカートニーは来韓しており...U2も来る(U2はもっと早く来る事も可能だったようだが、彼らが公演できるレベルの適当な場所がなかった。1万人以上を収容できる室内空間であるコチョクドームができなかったら、U2のソウル公演は今回も実現が難しかったのだ)。確かに私たちの公演市場は大きくなった。しかし、市場の健康状態はそれほど良くない。背は高くなったが栄養不良で、そのためしばらく雨と風に吹かれたある野外フェスティバルのステージのような状況かも知れない。ここ数年間、アジアの企画者らが西欧のミュージシャンを媒介に協業を始め、これらの間の直接的交流も大幅に拡大されたが、例えばこの地域内で新しい音楽家を発掘し交流しながら小さくて面白いフェスティバルを作っていくことも、健康状態の改善のための一つの処方になるだろう。政治外交状況のため、しばらく日本との交流が萎縮するだろうが、最近では国内公演市場に成功裏に定着したアジアのミュージシャンがかなり多かったことを記憶する必要がある。市場が停滞期に入った頃に欧米の音楽市場主体がアジアで新しい機会を見出そうとしたように、我々も新しい発見のために目を向けなければならない時期かもしれない。

 


アルバム市場が滅亡すると予測した人は多かったが、ビニルレコードがこれだけ爆発的に成長すると予測した人はそれほど多くなかった。そのように、停滞を繰り返す国内の洋楽音楽市場や飽和状態に至ったかも知れない韓国のライブ市場も、意外な動力源を見つけることができるかもしれない。悲観したり失望するにはまだ早い。

 

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文中に出てきたホリデーランドフェスティバル、アン・マリーがフジロックの翌日に出る事になっていたのがアーティスト都合で直前キャンセルと発表されてたけど、実際は直前にフェス側から舞台上の事故については自己責任という契約書にサインを求められたので出られなくなったと本人のインスタグラムで暴露するというトラブルがあったようです。

(アン・マリー本人の希望もあって当時急遽場所を借りてファンのために無料公演を開催した)

同様にダニエル・シーザーとH.E.Rも直前で公演中止になっていたけど理由は不明。

(そのフェスの主催プロモーターは過去にも似たような契約を結ばせていたり、招聘したアーティストのホテルをとり忘れてカラオケボックス泊まらせたりという事もあったという韓国語のツイートがありました)

 

数年前まで確かに韓国フェスに自分が好きなアーティストが出るというので韓国まで観に行く日本の洋楽ファンも結構いたように感じます。

最近は日本公演の翌日韓国、あるいは逆のスケジュールでワンセットでライブをしにくる欧米アーティストが増えてるような。確かに十何時間もかけてアジアに来る事を考えると、東京から大阪に行くようなものなので効率的かも。

 

日本で欧米のミュージシャンの公演が難しくなってるという話、若い人たちが関心がないというよりも来日公演のチケット代の高さと若年労働層の収入減が関係してるのではという話もあったような。

日本の若い層が邦楽にしか関心がないというの、例えばバンドなら昔は洋楽に影響を受けた日本のバンドを好きになってその影響源の洋楽を聴いたり好きになったりというのがありましたが(自分もそれで好きになったバンドとかあった)最近の若手バンドはすでに日本国内のバンドがロールモデルだったりして、洋楽を掘る機会が減ったのかなと。それ自体は国内でのミュージシャンのバリエーションが増えて層が厚くなったという事でもあるでしょうし、「海外の音楽が必要なくなった」という事でもあると思うので、文化的な面では良い悪いではなく歴史の流れのひとつなんじゃないかと思います。欧米のヒットチャートそのままみたいなチャートでしかない国もあるので、そういうのに比べればいいんじゃないかなと。DYGLみたいに海外バンドに影響を受けたとあえて公言するバンドやBO NINGENみたいに日本国外から逆輸入みたいなバンドも最近多いですし。

 

一方でKPOPは「海外の音楽」ではあるけどシェアを伸ばしていますが、そこには音楽以外にグループそのものの熱狂的なファンがついているというスタンパワーの付帯がありきだと思いますし、エミネムのリリックに出てくるくらい世界的に音楽の世界も「成功するにはスタンをつけたもん勝ち」という方向がなきにしもあらずという事なのかもしれません。

【ize訳】「人脈ヒップホップ」には罪はない

【ize訳】「人脈ヒップホップ」には罪はない

2019.09.27

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019092709227212381

 

毎年、Mnetの「SHOW ME THE MONEY」の視聴率と影響力がますます落ちているという主張が出ているが、論争の頻度が高いのは依然変わっていないようだ。最近では数人のラッパーの判定をめぐって、いわゆる「人脈ヒップホップ」という議論が起こった。そして、いつもそうだったように、挑戦者の身分であるラッパーたちと韓国のヒップホップファンの怒りと諸説乱舞が交錯する。一言で言えば、問題だということだ。ところが、実はヒップホップシーンで人脈を重視するのは非常に自然なことだ。歴史的に数多くのラッパー、DJ、プロデューサーらが出身地、あるいは絆をもとに人脈を形成して活動してきた。つまり、ヒップホップシーンはもともと人脈ヒップホップの場だったのだ。

 

1980年代、ニューヨークのクイーンズブリッジ出身のラッパーたちが団結した伝説的な集団Juice Crew、エミネムを中心にデトロイトで親交を深めたメンバー同士で結成したD12、アトランタに基盤を置いたヒップホップ/R&Bアーティスト集団のDungeon Family、ニューヨーク・ハーレム街出身のアーティスト集団A$AP Mobなど、いわゆる人脈ヒップホップの事例は溢れかえっている。これは特にクルーという概念を重視するヒップホップ文化の特性から始まったものだ。普通集団を構成する時に、実力も重要だがもっと優先順位を上に置く部分は、出身地と親交だ。

 

もちろん、細部ではそれぞれ温度差がある。最初から正式にグループを結成したりクルーを構成したり下から苦楽をともにしてきた人々がいるかと思えば、まず富と名誉を手にし、ラップスターになった人の名声に基づいて集まる場合もある。同じアーティストでもただのアントラージュ(取り巻き)でも関係ない。過去、無名だったエミネムDr.Dreと契約するとすぐに一緒にラップをしていた友達(D12)を呼び集めたというエピソードが後者の好例だ。そのように、過去はもとより現在も多くのヒップホップアーティストたちは、前からは引っ張り後ろからは押しながらシーンでの勢力を広げ、メイクマネーのために邁進している。一般的には社会で人脈によって行われることは否定的に映る場合が多いが、ヒップホップシーンの中では全くそうではない。重要なことは、人脈の質如何ではなく、そのように集まった彼らの音楽的成就、あるいは説得力の有無だ。

 

そういう意味で、「人脈ヒップホップ?そもそも僕自身が上手いと感じ、良いと思って一緒に働いている同じクルーのメンバーを選ぶ事の何が間違っているのか」というGiriboyの抗弁は、少なくとも表面的には正しい。Giriboyだけでなく、現在議論の中心にある他のプロデューサーの場合も同じだ。むしろ「一緒に働いている同じクルー」である人を選ばずに突き放すことこそヒップホップシーンの中では不思議であり、disrespectfulな行動なのだ。それ故に、現在の状況はあまりにもおかしいし奇怪だ。議論が起きた場所が、韓国ヒップホップだけに存在すると同時にシーンを支配する奇形的なシステムの中にあるからだ。

 

「SHOW ME THE MONEY」の制作陣と参加アーティストたちは、誰よりも熱烈にヒップホップ文化の守護と拡張を叫ぶが、誰よりも早く既存のヒップホップ文化の歪曲化(韓国ヒップホップは何故「SHOW ME THE MONEY」に呑み込まれたのか?参考 http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019082307137250616)とラッパーの階級化を実現した。しかし、アーティストのほとんどはひたすら生計の解決と有名税を得ることに血眼になってこのような現実に背を向け、あるいは無視してしまった。韓国ヒップホップファンの相当数を占めるラッパー志望生とアマチュアのラッパーの殆どもやはり、プレーヤーとファンの境界から、ある瞬間この流れに参加してしまった。巨大なシステム「SHOW ME THE MONEY」の長いヒップホップ조지期には沈黙していた彼らが、唯一怒って抗弁し問題を提起するのは、各自に攻撃が加えられる時でなければ「身分上昇の為の機会の場所としてのヒップホップ」が脅かされる時、そしてポリティカル・コレクトネスに対する批判が加えられる時だけだ。今回の論議もこのような背景から始まったわけだ。

 

ジャンルと文化の根本を壊し、崩壊したシステムの中で公正さを見出すことは非常に虚しい。すなわち、皆が批判の弾丸を誤った標的に向けているのだ。極めてヒップホップ文化的な行動である「人脈ヒップホップ」がむしろヒップホップの為にと構築されたシステムのルールと趣旨に反するとの理由と公正性を根拠に批判されているが、実はそのシステム自体がヒップホップをめちゃくちゃにした根源である現実。現在の韓国ヒップホップは、それこそ途方もない矛盾の塊だ。今の論難は結局、「SHOW ME THE MONEY」、ヒップホップアーティスト、ヒップホップファンみんなの合作で作られたと言っても過言ではない。もう一度強調するが、ヒップホップの中では「人脈ヒップホップ」は罪ではない。

 

文| カン・イルグォン(「RHYTHMER」音楽評論家)

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SMTM8で言われている「人脈ヒップホップ」というのは、プロデューサー達が以前から知り合いのラッパーを贔屓しているのではないかという議論の事です。しかしこの文章にあるように、本来の「ヒップホップ文化」では人脈で繋がったり身内で繋がることは普通で、「レペゼン(出自)」や「マイメン(ツレ)」地元の友達などが重視されることがそのまま「文化」だという面があると思うんですよね。むしろ人間関係=人脈こそヒップホップの文脈だという見方もあるくらい、音楽と人間関係が絡み合っている特殊なジャンルというか文化なんじゃないかと思います。そもそもこいつ上手いなとか何かしらの良いと思う部分があるからつるむんでしょうし、アングラのラッパーでもある程度「うまい」人はすぐに声をかけられて誰かしらの知り合いでしょうしね。そういう意味での「人脈」でもあるんだと思います。


前の記事(【ize訳】韓国ヒップホップは何故「SHOW ME THE MONEY」に呑み込まれたのか? - サンダーエイジ)でもありましたが、特殊なルールや考え方のある文化を理解しないで自分たちだけのルールでジャッジしようとする事はオリジナル文化へのdisrespectであるし、特にヒップホップのような「上手いか下手か」よりも「リアルか否か」「かっこいいかダサいか」の方が重視されている文化圏では根本的な判断基準が異なる事もあり。例えば「発音がクリアで聴きやすくトラックもよく作られているけどどこかつまらない」ものよりも「何言ってるかわからない発音だしトラックも既存のつぎはぎだけどなんだかカッコいい」ものの方が評価が高かったり、リリックも「正しい」か否かよりも本人の身の丈にあった「リアルかどうか」の上で、言葉の選び方やフレーズが独自で面白いものが評価されるという風潮はあると思います。

(「ラップの技巧」と「ヒップホップとしての評価」が必ず一致するわけではない)


また、一般的にはパクリや剽窃とされがちな無断サンプリングや既存の曲や詩、小説などからのフレーズを拝借してリリックを作ること自体は罪ではないし、それを「どう使うのか」という事の方が評価の対象になるはずですが、これもまた半端にヒップホップがメジャー化した韓国のリスナー(ヘッズとは限らない)の間ではパクリだと問題になることもよくあるという。

和歌の本歌取りみたいなものだと思いますが、iKONの楽曲には出典が書いてあるのでアイドルの楽曲の場合は明記した方が好ましいと思います。意識的に取り入れて歌詞を書いている人は自覚があるから出典を明記できるけど、無意識のうちに混ぜちゃった場合は本人気づいてないから難しいのかもしれない。

(だから周囲の大人がよくチェックしなきゃいけない案件だと思いますが)

しかし「大衆化」するということは「わかってる」人たちだけでなく色々な種類のリスナーが増えるということで、端的に言えば「バカに見つかる(有吉)」という事でもあり。文化的な背景を知らない、あるいは知らない事も知らない(もしくはどうでもいい)という人たちが無闇に騒ぐという事は、ある程度注目を集める事柄に関してはあるあるなのかもしれません。