サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【スターニュース記事】「児童向け」という烙印を押されたアニメの新たな挑戦 [独立芸術映画公開新作レビュー]「あの夏」

「児童向け」という烙印を押されたアニメの新たな挑戦 [独立芸術映画公開新作レビュー]「あの夏」

https://star.ohmynews.com/NWS_Web/OhmyStar/at_pg_m.aspx?CNTN_CD=A0002934087

2023.06.07

 

初夏に訪れたうれしい客

「あの夏」を見たとたん、いよいよ来るべき時が来たなと思った。 訳もなく大げさに言うのではない。 私たちはアニメーション、すなわち「漫画映画」と言えば依然としてほとんどが「子供が見るもの」として学習された遺伝子で反応したりする。 それで独立短編アニメーションとは正確に対称を成すように、「国産」劇場封切り用長編アニメーションは「全体観覧可」で家族全員が手に手を握り、幼い子供たちと共に週末に外食と結合した形態で観覧するものだと規定されてきたのが事実だ。

もちろん、最近悲鳴を上げる映画館街に日照りの後の恵みの雨のように降ってきた底力のある日本のアニメーションや、ハリウッドブロックバスター級大作アニメーションもまたこの属性から完全に抜け出すことはないが、それでも比較的多様性が確保されている反面、特に国産アニメは「剥製」から抜け出せずにいる。 だからこそ「あの夏」が余計に嬉しい。

 

「あの夏」は「コロンブスの卵」のような存在だ。 全年齢が見ることが全てなら、熱心に商業的に必敗する悲劇的な運命から抜け出す余地が少しでもうかがえるので、アニメーション監督たちは苦労して折衷するケースが多い。 いずれにせよ、相当な予算を投資して収益を上げなければならない制作側は、まるで固く縛られたかのようにさらに狭く新作の素材とレベルに苦心している。 その中で自然に踏襲が行われ、観客は飽きて無視する。 なぜ私たちには日本のアニメの名家ジブリスタジオが出てこないのか、何かを言う前にこのような前後の事情を理解しなければならない。 いざ破格的な冒険を繰り広げようとすれば、制作段階で詰まったり、苦労して完成して披露しても、漫画映画はただ夢と希望を与えなければならないと言い張られるのが常だ。 そんな中、「あの夏」は(もちろん商業的計算がなくはないが)勇猛に新しい分野に挑戦する。 まさにLGBTの主人公たちのラブストーリー、すなわち「クィア」ジャンルだ。

もちろん、本作品も製作許諾がおりるまでは市場開拓の意図が最も絶対的根拠になっただろう。 依然として社会的には苦しい生活を送って偏見と嫌悪に苦しんでいるが、大衆文化では現在最も活力があふれる素材のひとつがまさにクィアジャンルであるためだ。 今ではクィアジャンルを背景にした映画やドラマには不慣れではない状態だ。 独立芸術映画ではむしろ逆転現象に見えるほど、該当分野の創作物が増加の一途をたどっている。 しかし、ついに劇場公開長編アニメでも試みが行われたのはかなり驚くべきことだ。 そのように「あの夏」は興行可否とは別に今後も続く試みの最初のランナーとなった。

 

ある者は反問するだろう。 物語映画であれドキュメンタリーであれ、YouTubeやウェブ配信ドラマでもクィアコードは数多く発見できるのではないか。 もちろん間違った言葉ではない。 しかし、国内での映画ジャンルの中で(隣国日本とは劇的に対照的に)アニメーション分野がどれほどマイナーに属し冷遇されているかを理解する人なら、「あの夏」の登場は衝撃に違いない。

 

2020年代の韓国文学の傾向と触れ合うストーリーの中で

【訳注:以下ストーリーのネタバレが含まれています】

 


時代はミレニアム前後、忠清道のある田舎の学校のグラウンドで18才のイ・ギョンとスイという名前の「少女が少女に出会う」。その運命的な初めての出会いは偶然な事故から始まる。 グラウンドのベンチに座っていたメガネ少女のイ・ギョンは、サッカー選手のスイが蹴ったボールに当たって、うっかりメガネが折れてしまう。 始まりはそんな風に痛かった。 しかし、2人は申し訳なく思っていたスイが、イ・ギョンに渡したイチゴ牛乳のように甘く惹かれあい、いつのまにか毎日出会いを待つことになる。 その時代の初々しい恋愛感情というのは、もともとそんな感じではないだろうか。

 

イ・ギョンは平凡に見えるが、他人には言えなかった苦しみがある。 染めたと誤解されるほど濃い茶色の髪、そして注意深く見れば目立つほど濃い茶色の瞳を持っている。 そのため、イ·ギョンは幼い頃から無念極まりない差別と嫌悪にさらされてきた。 今なら表向きでも口に気をつけるだろうが、その時代にはそんな配慮は存在しなかったから。 2023年の同世代的な視線ならそれこそ、「野蛮の時代」のような2000年のミレニアム前後当時にはイ・ギョンの同世代はもちろん、さらに教師たちまでが平気で当事者に「犬の目」のようだとして見えない矢を平気で飛ばす。 18歳の少女に向かって。それこそ、思わず投げた石にカエルが当たって死んでも気にしなかった時代だ。

 

もはやイ・ギョンとかけがえのない仲になったスイは、そのようなパートナーの瞳を違う目で見てくれる初めての他人だ。 今まで自分の瞳に対して誰よりも長く凝視しながらも、スイは恋人がいつも恐れていたが日常になった反応、すなわち嫌悪を一切出さない。 2人は磁石の異なる極が引き合うように、世の中のすべての初恋が出発するように自然に結合する。 見るだけでもミルクと蜂蜜が流れだしそうな風景が続く。 ああ、甘い愛よ。

 

しかし、2023年現在もクィア当事者たちは現実で想像もできないほどの不利益に苦しんでいる。 まして、ほぼ四半世紀前の人物であるイ・ギョンとスイの周辺状況も、決して侮れない。 初恋の熱病の中でスイは、世の中のすべての恋人がそうであるように1cmでももっと密着したい。しかし、当の相手であるイ・ギョンは集団生活に慣れているからか、世の中の偏見がどれほど恐ろしいかをスイよりは多少よく知っている。そのため、もしかするとふたりのパートナー関係が周辺に明らかになるのではないかと、スイののべつまくなしなスキンシップに困らせられる。 そしてふたりの甘い10代は終わりつつある。 もうスイとイ・ギョンは、登下校の時に自然に一緒にしていたようには同じ道を歩くことができない。

 

太陽の光り輝く「あの夏」に起こった関係の終わり

ふたりの恋人の道は20歳を迎え、はっきりと分かれる。 イ・ギョンはソウルのかなり良い大学に、それも就職がうまくいく学部に合格し、成功的な将来に入ろうとしている。 しかし、体育特技生として大学に進学した後、実業選手になるのが目標だったスイは、高校3年生の夏に十字靭帯の負傷で選手生命が終わってしまった。 韓国の無数のスポーツ特待生志望者がそうであるように他の代案は準備していたはずがなく、イ・ギョンに比べて家庭の事情も良くない。 スイは自立するために自動車整備を学ぶことを決意する。 それぞれ進路はかけ離れているが、20歳になった2人はそれぞれ上京してソウルで暮らすことになる。

 

すでにふたりはぼんやりとお互いの道が大きく変わったことに気づいている。 しかし、まだ愛ですべてを克服できると期待していることもまた真実だ。 むしろ大都市の匿名性のおかげで見る目の多い家と田舎町を離れ、ふたりは顔色を伺わず物理的にはより身近になる。 大学生活と技術学校の実習生で身分は違うが、ふたりは随時会ってスイの考試院とワンルームで一緒に泊まったりする。 見た目は仲の良い親友、実際には同居する恋人になったわけだ。 しかし、悲しい予感は間違いない。 ふたりには些細に見えるが、いくつかの節目が浮かび上がってくる。そのような感情の停車場を経て、初々しかった恋人たちは悲しい予感が間違っていないことに気づき始める。

 

忠清道の田舎ではイ・ギョンとスイは「唯二」、いや「唯一」お互いを共有する存在だった。 2人はすべての違いにもかかわらずひとりと同じで、他の代わりは想像すらできなかった。 しかし、家から離れてソウルという空間、それも名門大学で比較にならない多様な文化的体験機会を持つようになったイ・ギョンは、スイとの関係を続けながらも1990年代から徐々に生まれ始めたクィア当事者たちのアジトを象徴する「ムーンリバークラブ」に出入りし、同じ指向を持つ人々と交わることになる。 一方、お互いに社会的身分が変わったことを意識するスイは、イ・ギョンが一緒にそこに行こうと言っても嫌がる。 あえてイ・ギョン以外の他の人たちと付き合う必要も、理由もないと思うからだ。 あっという間に恋に落ちたように、そんなふうに悲しい予感は突然、しかしふたりが前々から兆候としては気づいていたように、あっという間に染みこんでいく。

 

結局ふたりは別れる。 もちろん、初恋の終わりは私たちが想像して期待していたこととは絶対に程遠い。 一方的な別れの知らせと涙が流れるだけだ。 映画は原作の描写を最大限まで純度高く再現しようと、それこそ全力を尽くしている。


時代的感性と初恋の郷愁を組み合わせた原作の映像化

「あの夏」の原作は「ショウコの微笑」小説集で大きな注目を集めた作家チェ・ウニョンの2作目の小説集に収録された同名の短編だ。 小説の始まりは次のとおりだ。

 

「イ・ギョンとスイは18才の夏に初めて出会った。 始まりは事故だった。」

(チェ·ウニョン小説集「わたしに無害なひと」2018[文学トンネ]「あの夏」

 

それこそ、20〜30代の女性主人公たちの限りなく壊れて傷ついた心をコピーするように再現する、すでに定評のある作家の描写力が極点に達する文章で満たされており、限りなく発揮されている短編小説だ。 優れた原材料の味を生かすために、映像化の際には最小限度脚色に集中する基調が一貫している。 そのような方向性の下でアニメーション変換過程を経た。 そのおかげで、それこそ一編の映像小説に近い結果が完成した。最近、軽いタッチでセクシュアル・マイノリティ問題を扱おうとする映像化素材としてよく脚光を浴びているウェブトゥーンやライトノベル原作とは次元が違う。 短編小説ではあるが、本格文学を基盤に創作が行われた点が非常に異彩だ。 そのような背景から、確かに物語密度の高い展開だ。

 

そこに、最近出版市場で脚光を浴びている若い作家たちの作品傾向のひとつの頂点ともいえる原作が噴き出す非常に繊細な描写が、誰もが一度は経験した初恋のおぼろげさと喪失の感情を、極限の精度で作品を鑑賞することになるひとりひとりの観客に与えてくれる。 このような部類の文章が巨大な叙事を解きほぐすには限界があるというが、「都市の中に原子化された個人」と解説される2020年代の感性には、それこそ密着するようにぴったりの相性に違いない。 映画はそのような原作の強みと属性を徹底的に理解し、その再現に没頭する。 そのおかげで「原作破壊」なしにテキスト中心の文学ジャンルを漏水率は最低限度で映像化するのに成功した結果として完成した。

 

そのため、本作品に対する好き嫌いはほぼ完全に、原作と作家の世界観に関する批判点と同じ範囲内で満たされそうだ。 物語は、限りなく純度の高いガラスが割れてまるで宝石の破片のように散らばった光景を連想させる。 少しでもミスすれば足の裏に刺さるガラス片、あるいはふとめくった瞬間に指が切れた経験のように、文を読ませる極限の感情線が画面いっぱいに広がり、そのような感性は完全に原作に基づいているからだ。 それゆえに「あの夏」は誰かに絶対的な共感で近づくが、他の誰かにとってはただ感情消耗の極致と見なされるはずだからだ。

 

映画は、几帳面に2002年ワールドカップの思い出とイ・ギョンが再生していた携帯用コンパクトディスクプレーヤー、携帯メールだけを送ることができた2Gフューチャーフォン時代の郷愁を再現する。 一部の人々は背景に登場するスラッシュ(フラッペ)や粉食店のメニュー価格を目にし、正確な時代背景を推理するほどだ。そのように心強いストーリーを支える背景の中で、初恋の手に余る序盤と交差する終盤の痛みが、ちょうど1時間を満たす分量で繰り広げられる。 そんな風に隠しておいた思い出の日記帳がキラキラと輝く。 イ・ギョンとスイが密かに故郷で共にしていた時間に思わず発見したホタルのようにだ。 そのような感性は、遠くはファン・スンウォンの「夕立」から思い出の映画「クラシック」や「建築学概論」が伝えてくれた感興を記憶する人たちに合わせた仕事だろう。

 

K−アニメーションの遵守した再跳躍に壮大な未来を祈りつつ

もともと「あの夏」の始まりはアニメーション専門配信チャンネル「LAFTEL」で、7部作オリジナルで2021年9月に独占公開されたオムニバスバージョンだった。 この7部作を(アニメ系列では「総集編」と呼ばれる)劇場用長編アニメーションに再編集して封切りを迎えたわけだ。 韓国映画ジャンルの中で最も収益率が低いという劇場用アニメーション界に新しい市場開拓を狙った果敢な投資であるため、嬉しく思わざるを得ない。

 

かつて才能を認められた新鋭ハン・ジウォン監督とグローバル作業を遂行してきた製作チームレッドドッグカルチャーハウスが結合したおかげで、本作品は私たちがよく韓国アニメーションに対して持つ偏見、主に児童およびファミリー層の観客が見るのに合わせられた水準だろうという先入観を、果敢に破る。 そのような希少性のある挑戦は、当然点を取って入らなければならない。 ただ停滞したまま限られた需要と観客集団に経路依存性が激しかった、国内劇場用アニメ市場に新しい扉を開けようとする本作品の試みが、以後どのような評価で残るのかも興味深い鑑賞ポイントだ。

 

そのように冒険的な試みなので、すべてが満足できるはずはない。 どうせなら原作を脚色したのではなく、オリジナルシナリオの創作に挑戦していたならという残念さ、構成面で(封切りのためにランニングタイムを1時間以上にしなければならない事情のため)感性的な短編を手足をぎゅっと握って無理に引き伸ばしたような構成な問題も指摘することができる。 ウェブドラマと同じ形で配信公開されたバージョンが原作の半分強の分量の脚色にとどまり、人物の後日談をもっと見たかった人たちには残念な気持ちを残したが、特に新しく追加された分量はない。 それでイ・ギョンとスイの別れの触媒になった「ウンジ」のキャラクターが簡単にしか紹介されていない点が残念ではある。

 

それでも「あの夏」の限界は、ひとまず越えてもよさそうだ。 その後、さらに多くの期待値と高まる目線については、後続の作業に渡してもいいのではないかと、なんとなく寛大になる気持ちだ。 それだけKコンテンツブームの中で、十分潜在力のあるアニメーションジャンルがもう少し注目されることを願うためだろう。そのような余韻の中で、念入りに2Dイメージで再現された当時の感興と完全に化学的に結合を成す(ソヌ・ジョンアやMeaningful Stoneキム・ウィドル、JUNGWOOなど)優れた陣容のインディーズ女性ミュージシャンたちの曲調がますます耳元に漂う。


物語は10代のセクシュアルマイノリティカップルが主人公だが、ラブストーリーの構成は非常にありふれた恋愛物語だ。 ゆえにクィア素材をもう少し濃く盛り込むことを望む人なら多少残念かもしれないが(ウェブドラマの水準で適度に精製された、悪く言えば「ファンシー化」されたかのように)異性愛者でも共感できるかすかな昔の恋の影を、久しぶりにまともに感じることができる。


あの頃、私が好きだった少女は元気に暮らしているだろうか? そんな風に気になるが、どうしても埋めておいた秘密の感性が、それこそ夏の日花火のように爆発する、長く待っていた嬉しいお客さんのような作品だ。

 

<作品情報>

「あの夏 The Summer」

2023年/韓国/成長ロマンス

2023年6月7日公開 :61分┃12歳観覧可

監督:ハン・ジウォン

声の出演:ユン·アヨン(イ・ギョン役)、ソン・アリム(スイ役)、イ・ダスル(ウンジ役)

原作:チェ・ウニョン「あの夏」 (短編集「わたしに無害なひと」収録)

音楽:イ・スビン

企画:LAFTEL

製作:RED DOG CULTURE HOUSE

共同提供:LAFTEL・RED DOG CULTURE HOUSE・ソウル産業振興院(SBA)

配給 パンシネマ(株)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「唯二」...韓国のネット用語で「ただ2人だけ」という意味で使われる。


「あの夏」の原作は「わたしに無害なひと」(亜紀書房)のタイトルで邦訳されているチェ・ウニョンの短編集に収録されており、韓国では第8回若い作家賞を受賞しています。


個人的には、文章を書いた人が「(韓国では)アニメは基本的に子供のものと見られている」」ことを「残念なもの」として書いているのに、なん小説原作の今作が「軽い」ウェブトゥーンやライトノベル原作ものとは次元が違うクィア題材作品であるみたいな言い方をしているのはちょっと気にはなりました。ウェブトゥーンやラノベのような娯楽的なクィア作品があってもいいはずだし、個々の内容によって判断されるべきでジャンルによる「次元の違い」はないはずです。漫画やラノベのようなエンタメ的な表現手法や媒体を「文学・芸術」より下に置くような価値観自体が「アニメ」というエンタメ手法の軽視にも繋がる気はしますので...