サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【質問箱お返事】日本語の早口言葉と韓国のアイドルについて

【お題箱からのご質問】

こんにちは。ここのところ悩んでいることがあり、ご意見をききたいと思い送らせて頂きます。
ご存知かわからないのですが、とあるKPOPアイドルが日本のTVでゲームとして早口言葉をやったことに対して、一部の日本のファンが異論を申し立てています。その理由が、「昔日本では十円五十銭という言葉を言わせて発音から朝鮮人とみなされた人たちが殺された歴史があるので、韓国人のアイドルに早口言葉を言わせることはそれを思い起こさせる部分があるから、発音の失敗を笑う要素があるゲームを韓国人にやらせるようなことは日本ではバラエティとしてやってはいけない」というような話でした。
私自身その歴史については知っていましたし、早口言葉自体はあまり面白くないゲームだとは思うものの、まったく結びつかないことだったので、正直そこを関係づける発想におどろきました。もっとショックだったのは、それを笑って見ていた日本人メンバーにも非があるというようなことを言われたことです。早口言葉自体は韓国のアイドル番組でも多国籍グループでも人種問わずバラエティでよくやられていますし、何よりもそのグループ自体がデビュー当時に外国人メンバーが韓国語を、韓国人メンバーが外国語を学ぶ際にお互いの言語の早口言葉を活用していたんです。(VLIVEでやっていました)異議をとなえてる人たちはそんな初期の話は知らないのでしょうが、そういうメンバー同士の歴史や関係性しっかりとある中で、そんな事を言い出す人がいることが残酷すぎてショックでした。


被害者の側であった韓国のファンの間で問題になったのならわかりますが、むしろそういう加害の過去があった日本人の側からそういう歴史を持ち出して無理矢理投影させること(私にはそう思えます)そのものが失礼なのではないかと思えて仕方ないんです。
でも、だったら外国人に早口言葉をやらせることと十円五十銭の違いはなんなのかと言われると答えられないし、わからなくなってしまってずっともやもやしています。

 

そこで長年韓国文化やKPOPアイドルを見ていらっしゃる泡沫さんはこのことについてどう思われるのか、ご意見を伺いたくて投稿します。色々と面倒くさい話なので、もし回答が難しいようでしたらスルーしてくださって構いません!
よろしくおねがいします。


2021年11月19日0:29

https://odaibako.net/detail/request/046ec500-3dd0-4bad-a75d-99d3912bf96e

 

詳細がこちらの伝聞でしかないので、ご質問内の情報からのみで判断して回答しますね。

自分がKPOP好きということと回答の内容にあまり関係ないかもしれないんですが、このお話の中に出てきた早口言葉についての捉え方がちょっと本来のものとは違っている気がしたのですが...

 

「早口言葉」というのは、元々喋る事が難しい音節の並びの言葉を、うまく喋れるかどうかやイントネーションを間違えることを外側から見て面白がったりジャッジしたり競ったりするゲームではなく、喋る人本人が噛まずにうまく言えるかどうかという、いわば「自分との戦い」を楽しむゲームではないかと思います。だから1人でも出来ますしね。早口言葉の音節の並び自体はネイティブにとっても難しいという前提があるものなので、「ネイティブなら言えるはず・簡単である」というものではないですから、「言いづらいという困難を乗り越える」という目的においてはネイティブと非ネイティブ両方にとって同じものであるはずです。だからこそ言語学習においてゲーム的な教材として早口言葉が使われる事は国問わずよくありますし、外国語学習者なら経験があるのでは。ご質問の中に書いてあったVliveの内容もそういう事ですよね。

一方の「十円五十銭」というのは、「言葉の頭に有声音である濁音が立たない」という日本語とは異なる朝鮮語の特徴のみをピンポイントに活用してジャッジするために作られた言葉(他にも「十五円五十銭」やシンプルに「ガギグゲゴザジズゼゾ」を言わせた例もあったそうです)なので、根本的な構成もその目的も実際の使われ方も、全く異なる物だと思います。むしろ、外国語学習者の人がその学習中の言語で早口言葉をすることは、学習という観点から見れば必然性があると言っても良いと思います。

 

だから、そもそもの「早口言葉とはどういうものなのか」という事を考えた時、両者をつなげる発想自体に私個人は正当性は感じませんでしたし、同じグループの日本人メンバーで外国語学習という韓国人メンバーと同様の経験を共有した事があるという関係性にある人に対して、「この2つの繋がりを感じ取れないのは日本人として罪である」というような理屈は無理があると感じるというのが、現時点での自分の考え方になります。

 

ただ、この意見が当事者である韓国の人の側から出たものであれば、話は別だと思います。たとえば加害者(とされる)側からすれば筋が通っていないように思える発想や理屈や感情だと思えたとしても、当事者の気持ちや受け取り方をとりあえずでも訊いてみるということは、被害者側の立場や経験を理解しようとするという意味でも加害者側の義務の一部であると思うので。
(どこまで受け入れるかどうかや納得するかどうかは別ですし、そこに生まれる感情と行動もまたそれぞれ別のものであって良いと思いますが)
そして当事者以外の立場から「当事者を代弁」するような時には、もっと注意深く繊細な省察や、当事者との対話が不可欠なのではないでしょうか。

 

加害者/被害者だったりマジョリティ/マイノリティの関係性において、前者が後者の置かれた歴史や現状を知ってその感情やスタンスを思いやるということは大前提として必要なことだと思いますが、もうひとつ、前者が後者に後者が求める以上に「被害者/マイノリティ」であるというレッテルづけをしすぎないことも大切なことなのではないかと思います。「自分が被害者と自覚できない人もいる」ということもありますが、そういう場合にした方がいいことは、「『わかっている』『知っている』私たち(マジョリティの側)が『知らない/理解できない』人たちに対して被害者の代わりにeducateすべき」というような態度よりは、「当事者が自らの経験から気づきを得られるように、当事者の声をきいて当事者の意思を尊重しながら支援をする」という方ではないかと、私は思います。そういう時に重要なのは、「アジテーション」よりは「対話」なのではないでしょうか。当事者でない人たちが当事者の置かれた立場を一方的に解釈して決めつけすぎることは、例えその動機が「正義」や「善行」からだとしても、当事者を尊重しているとは言えないだろうと私は思います。

 

この話はつきつめると、「韓国のアイドルが日本語で歌うこと」や「日本語を勉強すること」に対して、当事者側の意志や目的は無視して過去の歴史から(勝手に)「強制性」を感じて異論を唱えるような考え方の延長上にあるような気がします。
(実際過去にそういう論旨の事を言われた事がありますが)


当事者たちの意思や意図を無視して(あるいは知ろうとしないで/勝手に想像して)「日本語でなんか歌わなくていい」「日本語でなんか話さなくていい」と「日本人の側が」考えることは、現代の日本語と韓国人の関係性に昔の関係性をそのまま投影して相手の感情を断定するという、かなり特権的な立場からのものの見方や思考回路のように感じるのです。

 

今回のお話では、現時点で個人的にはふたつの出来事の間に共通点を見出すことに正当性は感じませんでしたが、このように自分が当事者でなかったり自分以外がマイノリティ側という立場でその人たちの「被害」や歴史について語る場合、いくら知識や経験を入れたといっても自分の頭の中でだけで結論を出せたり「唯一の正解」が存在するというものではない場合も多々ありますし、「正解を知っている」かのように振る舞ったり、当事者の考え方や歴史を学んだからといってその人の立場に成り代われるかのような振る舞いをすることは、「知らない」ということを建前にして振る舞う事と同様の傲慢さを含んでいる可能性があると思います。その時々の状況や時代によって社会や当事者側の考え方や「正しい」とされる振る舞い方も変わってくるものだと思いますので、自分としてもその時々でおしまいにせず、今後も継続的に考え続けたいことではあります。