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韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【idology訳】音源の「記録」〜音源チャートの意味

【idology訳】音源の「記録」〜音源チャートの意味


2018/04/14 byチョ・ソンミン

http://idology.kr/10339


まず先に重要なうやむやにできない点がある。 筆者はアルバム/音源関連のチャートがなくならなければならないとは思わない。 ここには二つの理由がある。 一つは大衆文化史に意味のある史料としての記録物が必要で、その一つがチャートになることもあると見ているからだ。 時代を代表できる、時代が愛した音楽が何だったのか記録する作業は明らかに意味がある。 そしてその基準において「人々が多く消費した」音楽がどんなものかを整理しておく作業は必ず必要だ。 また、もう一つの理由は大衆とポピュラー音楽が離れないように関与の度合いを高める役割をする媒体が必要だからだ。 先の理由とも共通する文脈だが、チャートが存在することにより大衆音楽家は大衆の消費傾向を分析することができるし、大衆の個々人は各人の趣向の領域内でどのような音楽が広く共有されているか確認することができる。

 
あらかじめ明らかにしておくが、この文は「音楽はスポーツではない」「どのようにして音楽を比べることができるのか」と主張する「チャート無用論」ではない。 むしろ逆に、厳格な基準を立てたチャートを保護しなければならないと話す予定だ。 音楽の評価基準を販売量チャートひとつに一本化する慣習は多くの間違いが盛り込まれる可能性があるが、大衆音楽を一つの完成された産業領域として認めるなら、「大衆の選択」を最も冷静に反映するチャートから絶対に目をそらしてはならないという意味だ。 従って、昨今の「LIMEZエンターテインメント(以下、LIMEZ)事態」も、まさにその「チャート絶対主義」にまい進している業界の雰囲気から生まれた弊害であるだけで、チャートが存在するということ自体から生じた問題ではない。 LIMEZ事態は「大衆の選択」という名目で大衆の本当の選択を無視し、自社のミュージシャンたちの音楽性も「チャート上位」というタイトルで保障できると信じた、まさに「チャートの罠」に陥った結果だ。

 
しかし、販売量チャートとして現存するすべてのチャートが必ず保護されなければならないわけではない。 冒頭に述べた通り、チャートは時代の記録だ。 遠い後日、特定の時期に多くの大衆がどのような音楽を共有したかどうかを語る時、ひとつの根拠として挙げられる、歴史性を持った存在でなければならない。 LIMEZ事態が初めて明らかになったリアルタイムチャートは、1時間に1回販売量を集計する。 LIMEZ事態の最も直接的な被害者とも言える、同じ時期に音源を発表したアイドルのファンドムはこのように主張する。 リアルタイムチャート、その中でも特に最上位圏の音源だけが公開される「5分チャート」のグラフが時間帯ごとに一定の販売量の推移を見せ、この推移は「大衆嗜好型」や「ファンドム集中型」などのいくつかに類型化されるということだ。 LIMEZ所属の歌手たちが「逆走」した音源がふたつのどんな類型にも該当しない、奇形的な動きを見せたために波紋の端緒を提供したわけだ。

 
「広く知られる」という意味で、Facebookなどで口コミでバイラルとなってチャート順位圏に入る歌手がありえないというわけではない。 「ファンカム神話」を作り出した「逆走」の元祖EXIDの「Up&Down」、様々なミュージシャンがカバーしながらバイラル効果を享受してきたユン・ジョンシンの「いいんだ」そしてKPOP STARを通じて知られた後、発表する曲が多くの愛を受けた赤い頬の思春期も代表的な「Facebookスター」だ。 「逆走神話」の根底にSNSバイラルがあることは、マーケッターなら分からない者はいない。 しかし、「LIMEZ事態」の核心は「バイラル」自体にあるものではない。 LIMEZの「Facebookスター」たちは「ゆっくり大衆のピックを受けた」という典型的な逆走行の誓詞を持っているが、前述した「口コミに先に乗った後」多くの人たちに知られてから音源の成績が上がっているケースとは違い、まるで初めから有名だったかのように発売と同時にチャート最上位圏にランクされた。 チャート順位操作の名分に「バイラル」を掲げたと見たほうが合理的な状況であるということだ。

 
YouTube「ユン・ジョンシン」検索

ユン・ジョンシンの「いいんだ」を検索すると、多くのカバー関連の言葉が関連検索語で表示される。 SNSバイラルの効果を体感できる一番最近の事例である]

 
ここで注目すべき点は、リアルタイムチャートが時間帯を基準に一定のサイクルをえがくという点だ。 そしてこのサイクルの根拠は、通常一般大衆の生活パターンを反映した、恒常性を持っているものだ。 「明け方には音源再生をつけておくアイドルファンドムのストリーミング回数が集計され、アイドルの順位が上がる」だとか「人が起きている時間には再び大衆性の高い歌手たちの音源がリアルタイムチャートに上がっている」という証言などがこれを代表する。 そうだとしたら、長期的にリアルタイムチャートが時代を代弁して歴史性を備えると言えるのだろうか。一定の流行の流れを反映して変化する日刊、週刊、月刊チャートに比べ、リアルタイムチャートが特別に大きな時代的な意味を含んでいると考えることは難しい。 多くの大衆の日常的な習慣によって毎日繰り返される現象を見せることが果たして1年後、10年後、100年後にどのような意味を持つようになるのだろうか?端的に言えば、我々が今この時点で「1994年5月28日の明け方4時に人気のあった歌」について強いて知るべき必要が果たしてあるのだろうか?

 
そうなると、リアルタイムチャートは何を根拠に存在するのだろうか?リアルタイムチャートがどのように認識されているかを見れば分かる。 発売と同時に発表される順位と、トップ3の音源に限って1時間も待たずに5分単位で更新される「5分チャート」、そして新たに建てられる記録を中継する各種媒体と、そのような「絵」を作り出すために仕方なく「スミン(ストリーミングの略語)」と「トルダ(ダウンロード回数の重みづけをするために、脱退とダウンロードを繰り返す行為)」にこだわるアイドルファンドムを見ればいい。ここに音楽を「聴く」人はいない。 実際このようなファンは「チャート進入順位に向けて、落ち着いた感想は一旦ランクインした後にしなければならない」と頑なに言ったりもする。 音源流通会社はファンのこのような「スミン」を防止するために音源公開時間を0時から午後6時に先送りするとしたが、逆に発売時間が変わった後の方がリアルタイムチャート成績に向けた競争はさらに熾烈になったというのが、関係者とファンドムを含めた利用者たちの大半の見方だ。 


このような過熱様相によってチャートが維持されているということを、該当DB情報をすべて持っている流通会社側が知らないわけがないことは確かだろう。 しかし、リアルタイムチャートの悪用に対する対策はまだされたことはない。 過熱のおかげで利用料を持っていくのは結局、流通会社だからだ。 もっと誘導すれば誘導するほど、絶対に放棄できなくなるという立場だと解釈しても差し支えないだろう。このような雰囲気の中で「SNSの口コミを通じての逆走」というタイトルでチャートの上位圏に安着した歌手が存在するという事実は、流通会社にとっても「言い訳」を作ってくれる。 リアルタイムチャートが「アイドルファンドムスミンチャート」であるという汚名を晴らす根拠として作用する余地が十分なものだ。 チャート最上位圏にアイドルの最新曲が布陣しているのは容認できないが、「大衆たちが多く聴いている」という噂は、たとえその実体がないとしてもなんとなく容易に納得できそうな根拠となるのだろうか。

 
チャートの細分化が必要ならば、その基準は「時間」ではなく「ジャンル」になる方がもっと理にかなっている。 実際、権威のあるチャートは通常それなりの基準で同時期公開タイトルを横に分類して販売量を集計する。多くはアルバム発売形態を基準にしたアルバム/シングルチャートであり、ジャンルや歌手のスタイルを基準に分けたチャートも多数存在する。 授賞式で与えられる賞は部門別に千差万別だが、果たしてその基準となるべきチャートは単純な販売量ただひとつに一本化されているのどうかという疑いを持ってもおかしくはない。たとえば、ほとんどの表彰式で欠かさない「新人賞」はたいていグループ、ソロや男性、女性に分けて行われる。 ところがこの基準が顕在化するのは「ネチズン人気投票」などをする時ぐらいであり、それさえも普通は部門を分けずに集計した後、受賞者選定時点において「口裏を合わせて」おいてグループを指定する方式だ。 したがって、それほど詳細に集計しファンが気をもんでいたチャート記録は、授賞式の投票をする時でなければ普段は流通会社DBの中に眠っている情報であるだけだ。 受賞の対象ではない音源の資料は余剰な情報に過ぎなくなる。


「記録」にはふたつの意味がある。 ひとつは「後日に残す目的で書いた文」を指し、もうひとつは「試合で立てた成績や結果」を指す。チャートが志向すべき「記録」がどちらに近づかなければならないのかは、きっと皆がわかっているはずだ。 大衆文化が産業の形を取ることには無視できない部分もある。 しかし、今の問題を作っているのは結局、目指しているところの問題だ。 チャートが有意義な「記録」を資料として残し、無意味な競争の「記録」を勧めないように、産業レベルで歯止めをかけなければならない。

  

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niloの件やそれに対する反応を見ると、チャートに対する権威主義と同時に、それによってチャート競争に執着し過ぎて起こる諸々の雑音要素によるチャートそのものへの不信という、ふたつの大きな矛盾によってかなりこじれてるのを感じました。互いの尻尾を飲み込むウロボロスの様です。

「販売量」ってそもそもはもっともシンプルかつ嘘をつかない・バイアスの少ないデータのはずなのに、何故そうなったのかという。

 
文中で「 授賞式で与えられる賞は部門別に千差万別だが、果たしてその基準となるべきチャートは単純な販売量ただひとつに一本化されているのどうかという疑いを持ってもおかしくはない」とありますけど、逆まさにmelon みたいな音源ポータルが賞の候補者を投票っていう販売量以外の要素で選んでる事自体が大分おかしい事のはずで...音源が強くない男性アイドルの受賞が客寄せや注目度には不可欠なんだろうとは思いますが、そこで根本がブレてるからどんどんねじれて行くし信頼がないんだろうなって気がします。リアルタイムチャートには文化的には意味がないのに無駄に競争を煽っているというのは本当にそう思いますし...。