サンダーエイジ

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【ize訳】82年生まれキム・ジヨン | 日本で「82年生まれのキム・ジヨン」を読む

【ize訳】82年生まれキム・ジヨン | 日本で「82年生まれのキム・ジヨン」を読む

2019.02.12

http://m.ize.co.kr/view.html?no=2019021209047246657

 

「似ているけどちょっと違う」「共感の中の違和感みたいなもの」

 

日本語版「82年生まれのキム・ジヨン(以下「キム・ジヨン」)」の人気に触発された日本のあるラジオ座談会で、本の翻訳者である斎藤真理子氏が最近、日本での韓国文学に対する注目の背景について述べた言葉だ。「一緒に米と味噌がのせられる食卓」に例えられたりもする文化的類似性は、日本で韓国文学を眺める出発点を他の海外文学のそれとは少し異なるものにしている。近年晶文社亜紀書房などの出版社を中心に慎重に企画され、日本国内の韓国文学の小さな流れが作られてきた中で、今年12月に100万部の小説「キム・ジヨン」が到着し「フェミニズム」という巨大な流れに合流して、市場とメディアの注目を浴びている。さらにこれが今の韓国文学に対する、そして作品の内的・外的土台となる韓国社会とそのリアリティに対する注目につながり、比較文化的な議論を刺激している。

 

キム・ジヨン」に限定して言えば「類似」は小説で展開される女性が経験する不当な現実とその背景だ。家庭を中心に女性/男性の規範と役割を強要し内面化させる制度と文化が、両国ともに根強く存在している。これが「ジェンダー格差指数115位(韓国)と110位(日本)」に要約される現実、すなわち女性に差別的で不利な現実を構造的に働かせ、再生産させる。この問題が、ある女性の暮らしを貫き破壊する様を扱った「キム・ジヨン」であるだけに、第1章から順調に日本の女性読者を慣れた世界に導く力を持っている。一方、「差異点」はどこに着目するかによって変わるだろうが、「現代ビジネス」に掲載された西森路代氏の指摘が鋭い。第一に、「韓国女性は男性に劣らず社会において活躍できるよう、少なくとも家庭レベルでは期待されている」という点である。韓国がIMF以降、激化した生存競争の中で「自分の子ども」に対する教育熱が男女を問わない側面があるとしたら、日本では教育段階から女性に対する機会と期待が制限されている。これに関しては2017年末に本誌に掲載したコラムで言及したことがあり、昨年明らかになった東京医科大学が8年間女性受験者の成績を一律に減点させ、入学を制限してきたという事実から端的に表れている。2番目の相違点は、作品の外で指摘される。それは「行動で現実を変えられる」という感覚と、そのように「文脈化してきた」経験の歴史だ。ここでは「Me Too」以前の雑誌「MAXIM」Mnet「SMTM」などメディアの女性嫌悪的表現に対する抗議事例とともに、抗議する市民社会の遠景として1987年の民主化運動まで遡及している。

 

このような比較は翻訳文学を紹介するための背景召喚である一方、日本のメディア空間でどのような韓国像が構成されているのか、構成されつつあるのかが確認できる資料となる。上記の雑誌で西森氏の文章と並んで掲載されたキム・ヒャンチョン氏の文章では「2000年代初めに韓国のジェンダー関連イシューを見て『日本で生まれてよかった』と安堵したが、現在の日本では『キム・ジヨンのような小説が出て話題になる韓国がうらやましい』という話が聞こえてくる」というコメントが登場し、実際「このような本がベストセラーになる韓国がうらやましい」というAmazonジャパンのあるレビューは韓日両国で繰り返し引用されている。この他多様な記事で1987年の経験が登場することからは、「日本とは違い、市民の団体行動で何かを変えることのできる躍動的な国」という(少尉進歩的市民陣営の視点で)多少神秘化された韓国像がちらつく。こうした一種の羨望の視線に文学分野において両国間の影響関係の方向性が逆転した最初の事例という異例性が加わり、世界的な"MeToo"の流れでも多少停滞を見せた日本に「韓国を見よ」という注文を触発することになる。

 

この2年間国内の多様な社会的な議論を巻き起こし、生命力旺盛なテキストになったこの作品が似たような問題を共有する日本社会に投げかけられることで、共感と関心を呼び起こすのは非常に肯定的なことだ。しかし、存分に和気あいあいとはしづらい違和感もある。「新潮」3月号の書評で鈴木みのり氏はこの小説が日本に呼び起こした共感の波や羨望の視線に慎重な警戒を表明する。作品はあくまで現実を追認するのにとどまったと限界を指摘し、作品が開いた空間に「出生時に割り当てられる『男女のいずれかの性別』に違和感を持たず、身体や服装などにおいて性別履行を行わない状態」を指すシスジェンダーしか含まれていないという排他的な側面に言及した。もちろん性別二元論に基づく女性の「平均値」リアリティは「キム・ジヨン」が選択した部分であり、この区分線によって排除された存在に対する配慮がないということが作品の欠陥にはならないだろう。ただし、鈴木氏の書評を通じて強調したいのは、決して「共感」したり「同等」ではない自らの具体性から出発しようとする読解態度だ。彼女自身がトランスジェンダーの女性であり、自らがこの作品と韓国の現実においてあくまで外側の人間であり、「私たち」個々人は互いに異なる共有できない属性の複合で存在すると強調する鈴木氏の文章は、なじみ深い一つの属性に形成されやすくとどまりやすい共感の持つ危険性を警戒していると考えられる。韓国でも日本でも「女性」の境遇は似ており、女性差別問題において今現在どちらが先に進んでいるといった具合に語られるとき(優劣を分ける一律的な基準が想定されるとき)、具体性に基づいて作っていくはずの次の世界への想像はむしろ後退しかねない。

 

もちろん、既に形成された共感が強いて「自分たちの問題」に対するもっと具体的な世界を構築することは、常に「次」の段階にならざるを得ない。斉藤(真理子)氏が「文春オンライン」コラムで書いた表現を借りると、この小説は日本で「議論のきっかけ」を作るのに「使える本」として機能する可能性を抱えており、それはすでにある程度その展開を見せているようだ。一方、Amazonジャパンのあるレビューは「この本自体は日本で愛されなくても別に関係ないが、この本と同じ位置や影響力を持つ文学は日本にも絶対的に必要だ」と述べている。全ての本がそうであるように、「キム・ジヨン」自体は波紋を起こす小さいが重い石であるだけで、これが今後どのような連関関係に置かれるかによって、話題の共感商品を超えて不当な現実を改善したり、他者への理解を深めるための媒体になるだろう。


文アン·ウンビョル("IMFキッズの生涯"著者)

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私も「82年生まれ〜」は読みましたが、面白くてすらすら読んでしまいました。読むだけでさりげなく色々な知識も入るし、文章も読みやすいです。「文学」とは少し違うかもしれませんが、面白く興味深いエンターテイメント小説で、主要人物と世代が近いのもあり勿論共感する部分というか同じだなあと思う部分も多々ありました。

 

しかし文中にもありましたが、韓国社会文化の事を実際にあまり知らない人がこの本を取り巻く状況を部分的に見ただけで、むやみに韓国を羨ましがるのも違和感はあります。フェミニズムの広がり方や速度も日本とは違いますし、日本ではどちらかといえばフェミニズムセクシャルマイノリティの距離が近い一方、韓国では特に近年ネット上で広がっている「フェミニズム・リブート」においてはマジョリティ/マイノリティという区分よりも「男/女」という、より二元化した生物学的ジェンダーを規範とした対立構造になりやすいという面もあるようです。だからこそこの文章でも「シスジェンダー的である」という日本での指摘をあえて取りあげたのかもしれません。日本は日本、韓国は韓国でそれぞれ異なる問題があり、それはどっちが「進んでる」とかいうような単純な話ではないという事だと思います。結局目くそ鼻くそという。(110位と115位だし正しい目くそ鼻くその使い方だと思う)そして「共感」や「連帯」自体は良い事だけど、現実の社会では「連帯」の輪に入れない・入らない存在の多様性にも目を配るのが本来の意味でのフェミニズムが目指すところのはずだという事もあるでしょう。韓国の場合は兵役システムという逆差別ともいえるような問題もありますし。(女性も志願すれば兵役につくことは出来るそうですが)


日本の場合は60年代の学生運動あさま山荘事件などの顛末がその後の行動様式に大きな影響をもたらしているのではないかと思いますし、もっと遡るなら大戦の時代の立場も真逆で、文化的に近い部分があっても根本に社会的な差異があるのは歴史的に当然だろうと思います。日本で語られがちな「日本とは違い、市民の団体行動で何かを変えることのできる躍動的な国」という目線を「多少神秘化された韓国像」と斬っているのがクールだなと思いました。単純にこの時期日本で公開された映画の内容などのタイミング的な事もあると思いますが。性的な事に対するスタンスも社会的にはかなり差がある(個人間ではあまり変わらないと思いますが)感じがしますし。日本の場合韓国に比べると変化がゆっくりなので世代間によって感じ方のギャップも結構大きいような感じもありますし...業界によってもかなりジェンダーギャップを埋める努力が進んでいる場所とそうでない場所の差がものすごく大きかったりで、個人のいる場所によって感じ方がかなり違うというのもありそうです。

例えばの話ですが、語学関係仕事をしている自分の友人が韓国人の友人に日本での仕事の紹介をした時に、「女性が社長で女性の社員が多い会社だよ」という話をしたら、「この規模で女性がトップオブトップなんですか?!やっぱり言っても日本は進んでる」とかなり驚かれたそうなんですが、言われた友人は「語学の分野で特に特定の言語だからっていう特殊性が大きいと思うし、全体で見たら『日本は進んでる』とはとても思えないよね」と言っていました。文化的社会的背景を細かく知らない状態で単純な比較は難しいという実例のように感じました。


それと韓国の人とこの本について話していて共感したのが「日本の文学や漫画、映画にも十分にフェミニズム的な作品は沢山あるけど、今の韓国ならフェミニズムを看板にするだろうというような作品でも、日本ではあえて標榜しないケースが多いようだ」という点です。日本のフィクションは良くも悪くもイデオロギーを前面に出すのはクリエイティブじゃないと捉える節があるような?社会運動が盛んだった70年代くらいまではイデオロギーを前面に出すスタンスの作品もあったようですが、あえて標榜せずに読んでエンタメとして楽しんだ結果、作者の信条が読み手に無意識に伝わって刻みこまれる方が「作品のレベルが高い」と思われてるような気がします。

(「キム・ジヨン」も作品としてその部分でも成功していると思いますが)


結局、この本を「読んで連帯する気持ちを持つ」だけで「なにがしかに参加した気分」になって終わるだけではなく(「話題の共感商品」っていう表現は言い得て妙だと思います)そこから「感想」を超えて自分なりに考えて議論したり、自分たちの社会の未来について具体的な行動を起こすことの方が大事という事だと思います。そういう火種になる力を「キム・ジヨン」は持っているという事ではないかと思いました。