サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【brunch訳】宮脇咲良、人格の到着

【brunch訳】宮脇咲良、人格の到着

brunch × BIG ISSUE

by MC ワナビー

2018.10.08

https://brunch.co.kr/@mcwannabe/189

 

KPOPが日本のアイドル産業から思ったより多くのものを借りてきていたことに気がついた。 アジアの音楽界の大勢はKPOPであり、JPOPはガラパゴスになり、日本のアイドルの実力もそうであるという評判にもかかわらず、だ。

 

◆TWICE時代以後のKPOPアイドル産業の特徴は、ファンドム市場の強化とファンドムとの擬似的人格的疎通、アイドルのキャラクター商品化だ。 この全ての傾向は、日本のアイドル産業で一足早くお目見えした。 AKBグループを代表する総選挙システムはオタクたちの火力で勝負し、AKBのスローガン「会えるアイドル」は、ファンとの対面での疎通を意味する。 ファンに向けられたモバイル放送SHOWROOM」は韓国の「Vlive」、ファンと歓談する「握手会」は「ファンサイン会」に相当する。アルバムの購入者をファンサイン会に当選させる韓国企画会社の販促システム自体が、アルバム購買がそのまま握手会チケット購買になるAKBシステムと同じだ。 一昨年リリースされKPOPのトレンドとなった<プロデュース>シリーズも、10年前に始まったAKB総選挙をベンチマーキングしたものだ。このような事実を改めて思い、思ったよりも放送を興味深く見守った。 韓国のアイドルと日本のアイドルは同じアイドルだが、職種が異なる。 韓国のアイドルがステージに特化したパフォーマーなら、日本のアイドルはファンドムとのコミュニケーションを専門とするエンターテイナーだ。 KPOP産業は過去に構築されたトレーニングシステムに加えて、ファンドムの役割が増大する状況へと転じている。 こうした意味で日本のアイドルが抱く文化的特性は興味深く、彼らだけのメリットがあると認められる。 なかでも断然印象的なのは宮脇咲良だ。

 

咲良はAKBグループのエースで<プロデュース48>のテーマ曲「ネッコヤ」でセンターに選ばれ、内政論争を呼んだ。 この点だけでも話題の中心になったが、そのような外的要素より目を引くのは実に豊かな魅力だ。 宮脇咲良の魅力は「ギャップ萌え」、意外性と言われる。 咲良は、日本列島の市街地に咲いた桜の花のようなルックスで登場したが、放送が進むにつれておっちょこちょいな素顔が露出してきた。 高慢に見えるが気さくな行動、意欲には溢れているが粗い実力、服装に無関心な性格、顔をむやみに動かす表情が新鮮さと親近感を引き出した。 このようにイメージとイメージの間のギャップは「咲良の魅力」だが、これだけでは十分な説明ではない。 咲良は単に意外性のあるキャラクターではない。 意外な要素が非常に多様で、それらが循環し続け、キャラクター性が交代し続ける。 高慢そうな美女だと思っていたのに意外とひょうきんで、そうかと思えばいつの間にか雰囲気のあるビジュアルでカメラを見ていて、そこに気を取られているとまたおふざけに戻ったりする。 それに、そのルックスもじっと見れば美しいという形容を突き抜けた余白がある。イメージの対称点(ファンの表現としては「宮脇さん」と「クラ」)を行き来しながら、新鮮さと馴染みある姿を何度も繰り返して与えるのが咲良の真価であり、咲良は自分の魅力ある要素を意識して本能的な印象を与える。

 

咲良のキャラクターはキャラクターの概念を超えており、キャラクターという対象化された概念では完全に収束できない異質的要素で構成されている。 美女だが友人のいない「아사(アウトサイダー)」で、アイドルなのに徹夜でゲームをする「オタク」で、モデルのようなセルカを撮るが何千円かの「バックパック」と「サンダル」を擦りきれるまで使う。 これらのひとつひとつはよく定型化されているキャラクターであり、そのように相反する要素が一つになったキャラクターも馴染みがなくはない。「オヤジ女子」「工学部の美女」「美女オタク」がそれだ。 しかし咲良の場合、それらが作られたイメージを超えて身体に染みついている性格だと確信させる状況がキャラクターを突きつけるほどに続出し、キャラクター以上のイメージを与え、類型化されたキャラクター性を脱却する人格的要素が、キャラクターと衝突すると同時に共存する。 時折見える深い考え、社会に関する真剣な発言、決断に身を置く現実に関する省察などだ。    

 

咲良は文章がうまい。 勉強を何故しなければならないのかと尋ねるファンに「学校での勉強は、自ら目標を立てて成し遂げるために努力する過程の練習」と回答し、ゲームに対する偏見には「私たちはあなたが他のことをする時間にゲームをするだけで、それが世界を楽しく生きる方法だ」という。 あるインタビューでは政治の大切さを語り、平和憲法を改正しようとする日本の政治界の動向を心配し、「咲良の女性力はどう?」と尋ねるファンに対し「家事は女性だけじゃなくて人間ならだれもしなければならないことで、人間力の問題だ」と話した。 意外だと感じられるほど正直に心を開いて見せる時もある。 咲良はいつももっと大きなスターになることを願っていて、より大きな機会を得ることを願っている野心家だ。 しかし、AKBの墜落傾向と自分の不透明な将来に自ら恥じ入るとともに涙し、アイドルとしての可能性を抑圧する総選挙システムに幻滅感を表わしたこともある。 これは性的な商品として対象になる事しか考えられないという日本のアイドルに対する通念では理解できない、所信がある自由な発言だ。 むしろ私たちが暮らす社会で、自らが抱く欲望と悲しみを語る韓国のアイドルはなかなか目にする事はできない。

 

咲良のキャラクターはひとりの人間の外面と内面、意識と感情、個人的なレベルと社会的なレベル、そして内装部分と飾られていない部分の集合体であり、その中心には自分を取り巻く現実を主導しようとする主体性がある。 これはひとつの系統で画一化されたキャラクターを超えた「人格」と呼ぶに値する有機体だ。 咲良は美しくてダンスのうまいアイドルではなく、興味深く複雑な人格体として韓国のアイドル市場にやって来た。 きれいだが素朴で、欲が多いが足りておらず、賢く、突拍子もないが真摯で、オタクだが社会性を備えていて、このすべての要素が共存するのが宮脇咲良という人だ。 だから彼女に関心を持つようになった人々が知るほどに魅力を感じ、人間的な好感を持つようになったと告白するのだ。 咲良は韓国の視聴者だけが投票に参加した<プロデュース48>で、最も強力なファンドムを結集させた。

 

これは根本的に韓国と日本のシステムの違いから始まる。 韓国のアイドルが1から10まで企画会社が管理する専門的な人材だとしたら、日本のアイドルはトレーニングもマネージメントも受けられないままそれぞれが躍進する自営業者だ。 日本のアイドル産業は、自国のゲームやコミックス産業のように対象に向けた収集欲求や愛着の感情に浸ったオタクを消費者とするキャラクター産業だ。 木の葉の里、ポケモンワールドのような数百人のメンバーから成るアイドルワールドがあり、そこに投げ出されたアイドル個々人は自分のパーソナリティーをキャラクターにして販促活動を行う。 そのため、企画会社が決めた類型化されたキャラクター(「マッネ(年長なのに末っ子っぽい)」「実勢(真の実力者)」「ガールクラッシュ」等)がすべての韓国アイドルに比べ、はるかに多彩なキャラクターと敍事や関係性を構築する。(職業活動において公私の境界を崩すという点で、パーソナリティーの商品化の危険要素はまた別にある)AKBファンドムの弱小な韓国で制作された放送で、縁故もなく実力もない日本人練習生たちが韓国の練習生をリードする「コアファンドム」を手にした理由だった。 もちろん、彼女達は文化的な違いのために韓国ではなかなかお目にかかれないキャラクターであり、希少価値があり、すでにデビューした芸能人なのでこれまで活動してきた歴史が用意されているという有利さもあった。 咲良はこのような土台の上で、個人の力量によって新しいアイドルの典型を見せた。

 

韓国には「パーソナリティー」を表わして活動するアイドルは少ない。 企画会社のマネージメント体系が緩かった00年代には、そのような事例が見られた。 代表的なのが、官能美のアイコンでありながら私的な恥部もいとわず吐き出すイヒョリだった。 マネージメントシステムが高度化した10年代に入り、アイドルのSNS活動と個人的な発言は厳しく統制されるようになった。 10年代半ば以降はソーシャルメディアを通じた個人放送が本格化し、ファンドムとの接触が増大してアイドル産業の傾向が変わり、一方向に演出されるプライベートなコミュニケーションのファンタジーとキャラクター性を販売している。 一方、女性アイドルの中にはファンミーティングやインタビューでの断片発言やインスタグラムで「いいね」を押すなどの破片的形式ではあるが、自身のアイデンティティや社会問題を迂回的に発言するケースが少しずつ増えている。 咲良はこうした過渡期に韓国に到着した「外来種」だ。 自分の活動を直接企画し活発に自分を表現していた彼女が、しっかりしたマネージメントシステムでどのような冒険をしてどのように進化できるかは、興味深いだけでなくさらに大きな示唆を与えられるポイントだ。     

 

これまで韓国の女性芸能人は、女性向けコンテンツの不足からいくつかの対象化された役割だけしか得ることができなかった。数年前から女性を中心とするコンテンツ、新しい女性像の必要性が唱えられているが、制約された役割から向かい側にある席へと脱走するやり方で実践され(注:おそらくミラーリングの事)役割の幅が逆に限定される可能性があるという落とし穴がある。 咲良はこの点で、韓国の大衆文化界の女性キャラクターに多様性を加えることができる。 好きな趣味に没頭し、予期せぬ人気に浮かれて自慢し、世の中の大きな問題について発言し、自らの欲と悩みを抱えており、下手だから失敗もする。 「女神」でも「妹」でも「強いお姉さん」でも「女戦士」でもなく、何の物差しもなく自ら世の中のことを感じながら生きてきた人格体だ。 女性にとって「ロールモデル」や「ワナビー」にはなれないが、自分より出来ないから可愛く思えたり、自分より良くできるから感心したり、自分と同じように世の中に疲れきっている、仲間のような存在だ。 この点が、咲良が自分と同年代の女性ファンたちからも愛される理由だろう。 もしかしたら韓国文化界に足りなかったのは、このように温厚で豊かな人格としての女性だったのかも知れない。

 

AKB48は購買力を持つ中高年独身男性の遊び場へと転落した。 日本は女性を性商品化する悪習が強い国だけでなく、AKBメンバーたちは年老いた男性たちの需要に合わせて自らを商品化しているのかも知れない。 だが、悪い構造の中にあるからといって、そこで生きていく人々の尊厳まで否定されるわけにはいかない。 構造から離れ、主体として立つ機会のない人々が構造を乗り越えていくために抱く決意はそれ自体で主体性を構成できるし、時には構造の性格に反するポジティブさをもたらすこともある。 たとえば<プロデュース48>で最終合格した本田仁美のように、「今年は勝負の年だ。 私はもっと高いところに行きたいから助けてほしい」とファンに要請するようなレベルの能動性を再現する女性キャラクターを、韓国の文化産業ではあまり見た覚えがない。 同様に、システムの内側にある一方でシステムを内省的に見極め、問題意識を持つこともできる。 構造に対する真の省察は、構造の影響力を認知しながらも個人が抱く可能性を肯定し、構造と個人の間取りを精密に観察することにかかっている。 個人をすなわち構造と同一視する二分法は、むしろ構造の作用に関するそれ以上の事由を放棄する形式的な通念だ。     

 

KPOPとREDVELVETのアイリーンが好きな人。日本のアイドルとして育ってきたが、その中の限界と不条理に煩悶し、人生を変えるために憧れていたKPOPの国にやってきたアイドル。 宮脇咲良が挑戦するアイドル人生の第2幕を、愛情のこもった視線で見なければならない理由だ。

 

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아사=アウトサイダー(아웃 사이더)の略語で「友達がいない人」という意味。

 

brunchというライターズコミュニティで見かけた文章です。日本のアイドルを推す(?)韓国の人の文章としてとても興味深く読みました。悪とされるシステムの中にいながらも内省的にシステムを省みることはできるという話、一部の日本の人たちよりもある意味冷静で適切に見てるんじゃないかと思いました。


日本の「プロデュース48」関連の記事で日本のアイドルシステムがKPOPに負けるというか、これからはKPOP的価値観が入ってくるのではないかというような記事を見かけて、率直に違和感がありました。何故なら、韓国のアイドル業界は「実力」や「楽曲のクオリティ」という面で要求される事が日本のアイドルよりも高い割に、結局のところ消費されているコアの部分は日本のアイドルと同じであると、10年近くKPOPのファンドムに身を置いて実感してきていたからです。KPOPのトップグループはダンスや歌のクオリティが高い事が大前提なので、逆にそれがバイアスというか隠れ蓑になって「アイドルファンが本当はアイドルをどのような理由で好きになって推すようになるのか」という事が特にアイドルオタではない人から見たら曖昧に見えるのかもしれませんが、韓国では特別にグループ内で歌やダンスの実力のあるメンバーが人気というわけでもなく、結局のところ全人格的に消費されているのは「ファンとのコミュニケーションがメイン」とこの文章で言われている日本のアイドルと変わらないと思います。男女問わず歌やダンスの激しいトレーニングを積んだ上で更に日本のアイドルと同様のファンへの対応やキャラクター消費されることを望まれるわけで、ある意味日本より過酷だと思います。しかもその要求されるキャラクターの幅も社会的な要素(社会的に強く要求されるアイドル像)が加わって来る分日本よりはるかに狭く感じます。


特にプロデュースシリーズはそういう面がわかりやすく露呈したプログラムで、実際過去のシリーズを見ても必ずしも実力順にメンバーが決まったわけではありません。そもそも実力順で決めるなら指導するトレーナーだけで決めればいいことで、国民投票などというシステムは不要なはずです。そして一般のファンがアイドルを推す時は、技能的な実力ももちろん魅力のうちではありますがそれ以外のプラスアルファ部分の方が多分に作用すると思います。そのプラスアルファの部分というのはまさに日本のアイドル(というか特にAKB)が特化して見せようとしている部分であり、プロデュース48は韓国の練習生に比べれば明らかに技能的な面では劣るのがわかる(そもそもトレーニング自体受けていないメンバーもいましたし)日本のアイドルが参戦することによってその事実がよりはっきりしたのではないでしょうか。

最終的な結果を見ても単純な実力通りというわけではなかったと思いますし、実力どおりなら早期に脱落していたであろうメンバーが結構後の方まで残っていたりして、やはりアイドルというのは技能以外にキャラクターや物語や関係性等、様々な複雑な魅力の要素が絡み合った上で成り立っているものだという事がよりよくわかったんじゃないかと思います。韓国の国民プロデューサー達の発言などを見てもそれははっきりしていましたし、結局「アイドルを好きになって応援する」という動機の根本の部分は、日本も韓国も変わらないという事だと思います。

ファンがファン以外の外部へのアピールためにアイドルの持っている技能を「利用」する事はあると思いますが(ダンスや歌が素晴らしいとか作詞作曲ができるとか)、実のところそのアイドルを熱狂的に好きになって応援する理由としては、ファンドムを名乗るファンのレベルなら単純に楽曲やパフォーマンスが好きという以上の個人的な何かが必ずあるはずです。

(そこに自覚的ではないファンの人もいるかもしれませんが)

AKBより歌やダンスの実力があって曲もレベルが高いアイドルがAKBより売れてないとか、KPOP業界でも歌やダンスがトップレベルに上手くて良い曲も書けるのに、トップクラスのアイドルほどは売れないという事実もあると思いますし。逆に技能的に全てが一番ではなくて足りない部分が多くあっても、強大なファンドムを作ることは出来るでしょう。それがアイドルの興味深く面白いところであり、コアの部分ではないかと思うのです。

 

この文章は、そこのところの何故アイドルファンがアイドルを好きになって応援しようと思うのかという事がよく表れている気がして、日本人だけど韓国のアイドルを好きで応援している自分とも表裏一体のように重なるところがある気がしました。筆者の方は韓国のアイドルと日本のアイドルの違いを力説しているけど、それが逆に根本の消費のされ方は同じなのではないかと思わせるというのが面白いというか、色々難しい言葉で理論的に説明しているけど結局、宮脇咲良自身の事がめっちゃ好きなんですねというのが伝わって来るというか。宮脇咲良さんの事ほとんど存じてませんでしたが、この文章を読んでちょっと好きになってきちゃいました。


しかし気になったのは「韓国のアイドルが1から10まで企画会社が管理する専門的な人材だとしたら、日本のアイドルはトレーニングもマネージメントも受けられないままそれぞれが躍進する自営業者だ。」という認識です。AKB以外のメジャーアイドルでは韓国のアイドルとまではいかないかもしれないけど、トレーニングやマネージメントをきちんと受けているアイドルもいるので(AKBも個人の所属事務所次第ではないのかな?)「日本のアイドル」じゃなくてせめて「AKBグループのアイドル」にしておいて欲しいなとおもいました。

 

追記:この文章を書かれたMC wannabeさんはツイッターをやってらっしゃいます。IZONE(というか宮脇さん)についての他に色々アイドルについてもツイートされてます。→@mcwannabee