サンダーエイジ

韓国のアイドルとか音楽についての自分が後で読み返ししたい記事のふんわり訳と覚書。

【idology訳】K-POPユートピアの港

【idology訳】ミミョウのプレイボタン:K-POPユートピアの港

 

http://idology.kr/7345

 

by ミミョウ
2016/07/23

 

東洋における地上の楽園は、神や仙人の土地だ。偶然そこに行き着くこともあるが再び訪ねる事はできない。時には俗世とは別の時間の流れを持つこともある。それこそが「この世界」だ。西欧のそれは少し違う。トマス・モアが描き、そしてユートピア思想へとつながった概念としてのユートピアは、人間が人間の力で建設し、外部の世界から自分を隔離した共同体である。時には航路がない島でもあり、時には陸から渡ってくることを防ぐ要塞でもある。そこでは人間は、教育を通じて「完璧な人間」に生まれ変わり、メンバーは互いに同一ではないが、同じようにそれぞれの役割を担って共同生活をする。ざっくり要約するとそういうものだ。

 

K-POPアイドルというユートピア

 

K-POPの世界はユートピア主義の皮肉な実装である。実際、韓国大衆音楽そのものがすでにユートピアだった。私たちは古くから世界でも類例なく珍しいほど自国の音楽を多く消費する社会であったし、第3世界らしく、韓国の音楽が海外で売れることももちろんなかった。 「単一民族」という名目の元、外部との混合を経験していない、あるいは経験していないものとしてきた。そんな「閉鎖」こそユートピアの不可欠な条件である。その一方でポピュラー音楽の目標は、経済成長期において私たちの社会の多くの領域がそうであるように、英米圏を模写して「追いつく」ことだった。このため、私たちは自らの生活をしながらも自らの内部を絶えず変化させてきた。 (「芸能界」という集団主義、あるいは共同体意識もある)K-POPはそのようなガラパゴスで独自の進化を成し遂げた異種である。

 

アイドルもそうだ。例えば練習生システムは、教育を通じて完璧な人間を「作る」プロセスである。SHINeeの「Everybody」が人間を機械で作られたような「完璧性」と共に(ユートピアというコインの裏面として)全体主義的なディストピアコンセプトを見せてくれたのは、それこそ象徴的である。アイドルはグループ内でそれぞれ異なる役割を与えられ、先輩アイドルが稼いできたお金はまだ損益分岐点に達していない後輩アイドルと練習生の育成費用になる。企画会社、またはグループのアイドルは、K-POPユートピアの中のもう一つのユートピアを構成している。何よりもユートピア的なのは、隔離された空間の中での統制である。 「社長の仰せのままに」という表現は「アイドルエンジニアリング」の多くの決定がどんぶり勘定式で行われることを皮肉っている事もあるが、同時に、その内部においてどのようなロジックで下された決定なのか、外部からはほぼ理解できないということを反映している。外部に向かって露出されているのは、専門家によって完全に作られた結果である。アイドルが「良い姿をお見せする」裏では、実際にどのような考えでどのような生活をしているのかはなかなか公開されない。ファンたちは隔離された島に観覧客として通行証を得た人々であるわけだ。

 

ところが、この統制力を発揮する方式は完璧に韓国的特性とかみ合う。リスクの要因はユートピアにおいては「排除」するということだ。 「花道だけ歩く」のを望むのはファンだけではない。何かの「完璧性」に傷がつく可能性が存在するような要素に遭遇したとき、私たちはそれは傷ではないという議論したり、「それが何だっていうの?」とその傷を受け入れない。韓国的なソリューションは、その要素の存在を「否定」するものである。 「苦心の末に解体」するとかだ。これは韓国的であるとともに、K-POPや韓国のメジャー芸能界においてより一層際立つ特徴でもある。ゆえにオーランドで銃器テロが発生した際にアイドルがSNSにレインボーのハートを上げた時、セクシャルマイノリティの問題が結びつくとされると投稿したものを下げ、なかったことにする方を選択する。 それがユートピア的完全性を不当に害するのか、それが整合性を害するような事をしているのかについての議論はあまり行われない。


統制力の限界が来ているのだろうか?

 

そのようなアイドルの世界が変化してきている。外国人の作曲家たちがK-POPに本格的に進出してきてからもうすぐ10年になる。インディーズシーンのミュージシャンが参加する機会もますます多くなっている。海外でK-POPを見かけたり、K-POPスターたちが海外のファンたちに接することもあまりに自然になった。 K-POPユートピアの港に「芸能界の常識」を共有していない人が出入りしているのだ。
特に、「誰かが」嫌がることは起きてはならないという冷めた韓国メジャー芸能界の外の大衆音楽が熱心に止揚してきたことに近い。

 

かつてメジャーアイドル企画会社は、録音されたボーカルソースを非常識な程に完全に処理するまではプロデューサーにさえ渡してくれないという話があった。プロデューサーがボーカルソースを直接作業する方が一般的で簡単であるにもかかわらずだ。しかし、今は外国人の作曲家が自分が参加した曲のマッシュアップトラックをSound Cloudに上げたりして、発売されたK-POPアルバムのマスタリングが気に入らないという発言をしたりもする。インディーズミュージシャンがアイドル企画会社の透徹したセキュリティと数多くの禁止事項が窮屈(非公式なルートでも)だと吐露したりもする。企画会社のデジタルシングルが外部プロデューサーの名前を本格的に記載し、SMとJYP所属アーティストがMYSTICからコラボシングルを出すこともできた。韓国では(ギリギリ)通用するような発言が、海外では衝撃的な人種差別主義的もしくは性差別的な発言として受けとめられたりもして、従来の「ファンドムの常識」とは違う動きを見せるファンが登場することもある。


このような常識の衝突は、ユートピアの「閉鎖性」に違反して「排除」を困難にし、「完璧性」を阻害する。港を閉じればいいのかもしれない。しかし、問題は果たして港を閉めることが可能なのかという点である。コンテンツの中でジェンダー的問題の素地を几帳面にチェックすることで知られているあるプロダクションのアイドルは、インターネット放送でのインタビュアーの巧妙な質問に、最終的に誰かが敏感に反応するような答えを出してしまった。内部でいくら緻密に制御しようとしても、インターネット放送とSNSの時代には、制御が不可能な状況にいくらでも遭遇するという意味である。ファンドムと芸能界の「既存の常識」が支配するにはあまりに開かれた場所であるからだ。今日でもSNS上でアイドルの名前をもじって「検索防止」をすることを要求するファンがいるということ自体が、その制御不可能性を反証している。しかもアイドルのMCN・SNSの活用は、ほかでもないユートピアの要塞の向こう側でアイドルともっと近く、詳しく接したいと思う大衆的欲求が絶えず戸をたたいた結果でもある。K-POPアイドルユートピアの港はすでに開かれた。

 

完璧な整合性の向こう?

 

それはユートピアの終わりが近づいている事を意味する。港を介してどんなものでも入​​ることができるのだから。完全無欠な「清潔」に別れを告げなければならない時間だ。しかし、その「清潔」にも裏はある。 K-POPを専門的に扱う外国人ジャーナリストは、K-POPスターたちがインタビューで多くの場合、彼らの音楽のようには興味深くないケースが多いと指摘する。善良かつ丁寧、優しいけど誰にも逆らわないように準備された返答だけをしているということだ。少なくとも西欧社会が興味と愛情を感じる「立体的な人物像」ではないということである。完璧性を達成するために完全無欠だけを追求した結果としての平面的な人間像は、実際にはユートピア主義が描く理想的な人間でもある。しかしそんなとき、より適切な表現は「ディストピア」だ。これはユートピアが崩壊した結果ではなく、ユートピアの他の顔を指す言葉だからである。

 

好むと好まざると、港の中にあるこれらは外から入ってくるし、どのようにお互いを調整して共存するか模索しなければならない時期である。おそらく完全無欠な「清潔」を放棄し、ほこりが多少付着しても大丈夫な程度の免疫を育てなければいけないかもしれない。またはまだ、「苦心の末に」港を見ない事を選択することもできる。しかし、港は取り返しがつかないほど開いてしまい、K-POPユートピアは亀裂を迎えている。それはただ、実際に起きている。

 

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MCN=YouTubeのようなマルチチャンネルネットワークの事。


去年の記事ですが最近の情勢と照らして考える事が多い内容だったので。

 

SMエンターテイメントのコンサートに行かれた方ならすぐに思い浮かぶかもしれませんが、SMのアイドルの韓国コンサートVの多くがが「ディストピアから世界を救ってユートピアにする」あるいは「ディストピア的世界に反抗する」っていうテーマなんですよね。大体どのアイドルも一回はこういうV撮ってると思います。例外はf(x)くらいじゃないかなあ。SMだけでなく多くの事務所がディストピアユートピアテーマのVTRを撮っていて「韓国のアイドル事務所どんだけディストピア好きなの???」って思ったこともあります。ディストピアから救われるシーンが多くはヨーロッパで撮影されてたり欧米人が多く出てくる(アジアではない世界の象徴なんでしょうが)事を考えると、なんだか皮肉な話ではあります。

 

韓国以上にガラパゴスなのは日本のアイドル業界な訳ですが、現状ではいろんな事を「見て見ぬふりをする」という所に落ち着いているのかなという気がします。ガラパゴスでも生きていける日本と違って海外活動が死活問題の韓国アイドル業界には文化摩擦は悩ましい事なのかもしれませんが、これに悩んだ結果が「欧米のセレブみたいに熱愛をおおっぴらに認める」とかなんだとしたら、大いなるトンチンカンな気もしてます。現状の「アイドル」というものがファンとの関係にある種の疑似恋愛や疑似家族的関係性を含んでしまっている以上、そこの部分は(現状がどうであろうと)あくまでファンタジーで貫き通すか、おおっぴらにしたいのなら「アイドル」という地位自体を放棄するベきなのが仁義ってものではないかと。欧米社会はそういう意味での「アイドル」という存在をすでに放棄してしまっているし、そういう文化圏のインタビュアーに人物像が薄いと言われても、そもそも言語の壁もある異文化の相手に対しては国内向け以上に当たり障りのない答えしかしないんじゃないのかなーとも思いますが。
(そういう面を上手く引き出すにはインタビュアーの技量もあるし)

PC的な事に関してはむしろ事務所が授業をして積極的に学んだ方がいいとは思いますが。数年前まではKドルが日本との政治がらみの発言や行動で炎上したりというのが珍しくなかったですが、最近はあまりない(ゼロではないけど以前のように怯えるほどではない)のはほとんどの事務所が気をつけるようになったからかなと思います。

 

韓国の場合はまずファンとの距離がいい意味でも悪い意味でも近すぎるケースが多いし、それ故になんでも知りたがるし、知って当然くらいの感覚もあるし、マスコミも暴きたがるし、マスコミに追求されたら事務所も答えようとするのが問題の根本にあると思うんですが、きかれても「プライベートの事だから知らんし教える必要も感じない」で貫き通せばいいだけで、別にわざわざ「事実関係を確認」して答えを出す必要もないんじゃないかと思うんですけどね。実際どんなに目撃されたり写真撮られて噂になったとしても、一切公には認めないで貫き通してる人もいなくはないし。
(実際にはつきあう相手に対しては事務所がある程度ヤバい奴ではないかチェックした方がいいとは思いますが。若くて世間擦れしてない人も多いだろうし、そこから道を踏み外す事も多々あると思うので)

 

実際に自由に行動や発言をさせたら揚げ足とられて傷つくのはアイドル本人だし、ネットでのバッシングが日本以上にひどいので(そしてすごく気にする傾向にあるので)世間やファンドムの考え方が成熟していない現状では、アイドルの方だけにそれを求めるのは損でしかない気がします。実際、Kドルのファンドムのメインであろう韓国と日本(中国は色々あるので置いときます)のファンはアイドルに対して、自覚はなくても(おそらく我が身と照らし合わせれば非人間的と呼べるレベルの)清廉潔白さを求めている人が多いようですし、ファンがいなくては存在できないアイドルというものがどこまでファンの求めに応じるかという永遠の課題でもあるでしょうし。

よほどトークが上手い人でもなければ薄っぺらい人物と思われようが、用意された答えだけを言っておくのがいちばん誰も損しないのかもなとも思います。